喜三郎の修業 (9) 邪神の妨害

投稿:2020年04月13日

自宅で宗教活動を開始した喜三郎(霊界物語の話中では「喜楽」という雅号で記されています)の元に、病気治しや神占を願いに大勢の人が集まり出しました。食事をする間もないくらいに大忙しの状態です。〔第37巻第11章「松の嵐」〕

それだけでなく、妨害する者もやって来ました。
第11章「松の嵐」から第12章「邪神憑」にかけて、次の5人の妨害エピソードが出て来ます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3711
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3712

 次郎松(第3~4章の次郎松事件に出て来た50歳代の男)
 牛公(侠客の子分)
 由松(喜三郎の弟)
 叔母
 重吉

喜三郎の霊能力に救いを求めて大勢の人々が集まって来ましたが、次郎松(じろまつ)はその霊能力を疑い、喜三郎がインチキ商売をやっていると勘ぐって、やめさせようとして来たのです。

現代の感覚だと、むしろ次郎松の方が多数派でしょうね。
霊能力の類はみな「インチキ」だと断罪されてしまうのではないでしょうか。

次郎松はインチキを暴いてやると意気込みました。
そして湯飲みの中に何か小さな物を入れ、中に何が入っているか当ててみろ、と喜三郎に詰め寄ります

喜三郎は
「私は神様の教えを伝えたり、悩む人を助けるのが役目だ。手品師のようにそんなことをするのはごめんだ」
と言って断りましたが、次郎松が
「尻尾を出したな。早く改心しろ」
と攻め寄ってうるさいので、仕方なく
「一銭銅貨が15枚入っている」
と中味を当ててやりました。

この手の透視は王仁三郎にとって造作ないことだったようです。
出口京太郎著『巨人 出口王仁三郎』の「序にかえて」に、作家の今東光(こん とうこう)による思い出話として、王仁三郎の透視能力のすごさが書いてあります。疑い深い新聞記者の小銭入れに入っている金額をピタリと当ててビックリさせたというのです。

常識とか固定概念を打ち壊すために、透視や予言、物体移動のような超常現象を見せることはとても有効ですが、しかしそれ(超常現象)自体に囚われてしまう危険があります。

神様の教えを伝えたり、悩み事を解決する、ということが重要なのであって、さらに言えば惟神の道に人々をいざなうことが宣教活動の本質です。
超常現象はそのための道具に過ぎません。
それ自体に囚われてしまうと、ただの興味本位のオカルトになってしまいます。

次郎松は湯飲みの中味を喜三郎がズバリ言い当てたので、霊能力が本物だと知りましたが、しかし
「ハハン、飯綱使い(キツネ使い)だな。そんなキツネをどこで買って来たのだ? ほんのちょっとでいいから見せてくれ」
と、表面的な超常現象に囚われてしまい、本質的なことには目を開きませんでした。

もともと次郎松は救いを求めにやって来たわけではなく、喜三郎と一悶着あって(第3~4章参照)、最初から喜三郎の活動を妨害することが目的なので、霊能力が本物だろうと偽物だろうと関係なかったのです。
その後、次郎松は
「喜楽がキツネを使って妙なことをしているから相手にするな」
と村中言い触らして歩き回りました。

次郎松は神の教えを忌み嫌う悪魔の霊に憑依されて知らず識らずに邪神の走狗(そうく)となってしまったのである。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3711#a145

神の道を伝えようとすると、決まって邪神の妨害に遭います。
それは低次の見方をすると「妨害」ですが、高次な見方をすると神が与えた「試練」となります。身魂磨きの修業の一環です。

喜三郎の活動を妨害するアンチ勢力は他にもどんどん出て来ます。
もっと後ろの方の章では、暗殺されかけたエピソードも出て来ます。
その妨害をどうクリアして乗り越えて行くかが、身魂磨きの旅の醍醐味(?)です。
結局、霊界物語というのは、そういうドラマがたくさん書き綴られているのです。
そういう点で、身魂磨きの旅の物語だと言えるわけです。

妨害勢力は外部だけでなく、内部(身内の人間)にもいます。
喜三郎のすぐ下の弟の由松(よしまつ)です。
牛公のエピソードの後に、由松のエピソードが出て来ます。〔第11章〕

侠客の子分の牛公が、足の怪我を治してくれと言って喜三郎の所に来ました。
牛公もやはり喜三郎を妨害しに来たのです。
本当は怪我をしていないのですが、喜三郎が治そうとしたら
「本当は怪我していないのに、それが分からないとは、こいつの能力はニセモノだ」
と非難し、逆に怪我をしていないことを見破ったのなら、わざと自分の足を刃物で切って
「こんなに血が出ているのに怪我していないとは何事だ。こいつはニセモノだ」
と、いずれにせよ喜三郎を非難攻撃して、金銭をむしり取ろうという魂胆です。

牛公の汚い魂胆を見破った喜三郎は、相手にしないで無視していたら、牛公は怒って暴れ出し、神床(かんどこ。神様を祭っている祭壇)にジャージャーと小便をして帰ってしまいました。

それと入れ違いに農作業から帰って来た由松は、この惨状を見て悔しがりました。
そしてその怒りを牛公に対してではなく、神に対してぶつけたのです。

「全く、この神様は力のない神だ。毎日々々お供え物をしているのに、こんなことされても、何の罰も当てないのか。ああいう奴はフンのばしてしまえばいいのだ。そうすれば牛公や次郎松にバカにされないのだ」(意訳)

そして由松は神床をひっくり返して、お供え物をメチャメチャにしてしまったのです。

「おいアニキ、こんな神を祭って拝んでも何の役にも立たないじゃないか。今日限り、こんなつまらないことはやめてくれ。祭ったために村中に笑い者にされて、こんな神は上田家の敵だ」(意訳)

と愚痴って、喜三郎の活動をやめさせようとします。
そして翌日から次郎松と一緒になって、神様の悪口を言い触らし出しました。

外部だけではなく、身内からもこんな妨害に遭うのですから、神の道を伝えるというのはなかなかつらいことです。

しかしこれは「宗教あるある」で、神に目ざめた人が多かれ少なかれ通る道です。
周りの人がやっていないことをやり出すのですから、浮いてしまうし、出た杭は打たれます。
ですが一歩前に出ないと世の中は良くなりません。

宗教に限らず政治の世界も一緒です。
与野党の権力闘争でいつでもカンカンガクガクですが、誰かが何かをやらなければ世の中は変わりません。
しかし何をやると必ず誰かが足を引っ張ります。

そのアンチ勢力をいかに対応して行くかというところに、その政治家や宗教家の真価が発揮されるのでしょう。

王仁三郎のやり方は、基本的に、アンチを排除するのではなく、含んでしまうやり方です。
アンチを手の平の上の孫悟空にしてしまうのです。

水鏡の「毒と薬」で王仁三郎は次のように説いています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg023

毒にならぬものは薬にもならぬ。
毒もうまく使えばたいした働きをするものである。(略)

「聖師様のそばには悪魔ばかりがついている」と罵るものがあるそうだが、よし悪魔であっても差し支えないではないか。毒になるものは薬になる。(略)

悪魔が一朝大悟、徹底改心すれば、多くの人を救う働きをするものである。
鬼も大蛇(おろち)も救わにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛嫌いばかりしていて、他人を悪魔扱いにする人たちが、信仰団体の中にも沢山あるのは歎かわしい事である。

また悪魔を料理し得る人才が、いかにも少ない事も、歎かわしい事の一つである。
お人の好いばかりが能でもない。

私は本当に骨が折れる。誰か私に代わって鬼も大蛇も料理するという偉才が早く現われないものかなぁ。

このワニ口(わにぐち。王仁三郎自身のこと)は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の堅い、腕っぷしの強い獣物(けだもの)でも、噛みこなすだけの強い歯を持っておるつもりだ。

アンチも料理してうまく使ってしまおうというわけです。
そんなワニ口に私もなりたいものです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月19日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック