喜三郎の修業 (3) 改心

投稿:2020年03月26日

父親の死をきっかけに、押さえていたものが吹っ切れた喜三郎は、義侠心を発揮して、市民をイジめるヤクザどもを相手にケンカ三昧の日々を送り出しました。

しかし、相手に殴られることはあっても、自分から殴ることはなかったようです。

いつも叩かれもって、心に思い浮かんだのはこうである。
『何だか自分は、社会に対して大なる使命を持っているような気がする。万一人に怪我でもさせて法律問題でも惹起したならば、将来のためにそれが障害になりはせないか?』
というのが第一に念頭に浮かんで来た。
〔第37巻第5章〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a141

つまり──万一、暴力事件で逮捕されて刑務所にでも入れられてしまったら、その使命が果たせなくなるのでは? とか、そのことで経歴に傷が付き、やるべきことが出来なくなってしまうのでは? と危惧したのだと思います。

そして、

その次には、
『人に傷つけたならば、きっと夜分には寝られまい。自分はいつも真裸になって、石だらけの道で相撲をとるが、力一杯張りきった時は、どんなところへ真裸で打ち投げられても少しも傷もせぬ、痛みもせぬ。これを思えば、全身に力を込めてさえおれば、何ほど叩かれても痛みも感じまい』
との念が起こり、指の先から頭の先まで力を入れて、身体を硬くして敵の叩くに任していた。……もう叶わぬ、謝まろか……と思ってる間際になると、いつも誰かが出て来て、敵を追い散らし、あるいは仲裁に入って、危難を妙に助けてくれた。それで、
『人間というものは、すべて運命に左右されるものだ。運が悪ければ畳の上でも死ぬ。運がよければ、砲煙弾雨の中でも決して死ぬものではない』
という一種の信念が起こっていた。

こういう態度は、何だか自分の生命を他人任せにしているみたいで、少々頼りないような気もします。

しかし別な見方をすると、これは神任せということなのかも知れません。
つまり惟神の境地になる練習を、神様からさせられていたと考えることが出来ます。

もっとも、この時期は無神論者だったというので、「神任せ」という表現はおかしいでしょうけど、運に任せるというのは、惟神の道の第一歩ではないかと思います。

それ故、人に頼まれたり、頼まれなくても喧嘩の仲裁がしたくなったり、ある時は、
『思う存分、大喧嘩をやって……偉い奴だ! 強い奴だ! と云われたい。そうして強い名を売って、たとえ丹波一国の侠客にでもよいからなってみたい』
という精神が日に日につのって来た。そのために二月八日の晩にも、若錦(わかにしき)一派の襲来を受くるような事を自ら招来したのである。
〔第37巻第5章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a143-a183

若錦(わかにしき)というのは相撲の四股名で、本名は八田弥三郎と言い、地元のヤクザ・河内屋勘吉の子分です。
この若錦一派に、明治31年(1898年)旧2月8日(新2月28日)の夜、ボコボコに叩きのめされて、頭に大ケガを負ったのです。
そしてそれがきっかけで喜三郎は心を改めることになります。

そのエピソードが第37巻第2章と、第5章の後半に出ています。
その間の章(第3章~第5章前半)は、それ以前の半年間の出来事の回想です。
具体的なことは霊界物語を直接読んで下さい。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a184

地理がよく分からない人のために地図を作りました。参考にどうぞ。
「伝記地図(1)亀岡~綾部の概観」
http://iizukahiroaki.com/?p=1193

頭を負傷した喜三郎は、精乳館で寝ていると、母親(ヨネ)と祖母(ウノ)が心配して実家からやって来ました。
この時期、喜三郎は「上田牧牛場 穴太精乳館」と名づけた会社を友人と経営していました。牧場兼牛乳配達業です。
当時はまだ牛乳配達というのは珍しく、けっこう繁盛していたようです。

↓ その頃の上田喜三郎 ↓
精乳館の法被を着た上田喜三郎

精乳館に朝早くから配達人が集まって来ましたが、喜三郎が鍵を閉じて開けないので、異変に気づいて実家の母親を呼びに行きました。
母に知られてはバツが悪いと、喜三郎は少し離れたところに借りていた自宅(喜楽亭と名づけた、小さな小屋)に隠れ、布団を頭から被って横になっていると、やがて母が現れました。
母の世祢(よね)は加害者の若錦を恨んで次のように嘆いています。

去年までは親爺サンがおられたので誰も指一本さえる者も無かったが、わしが後家になったと思うて侮(あなど)って、うちの伜(せがれ)をこんな酷い目にあわしたのであろう。(略)中途に夫に別れるほど不幸の者はない、また親のない子ほど可愛そうなものはない(略)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a095

つまり世祢は、喜三郎は父親が亡くなったためにバカにされていじめられたのだ、と認識しているのです。

喜三郎もそのときまでは若錦を恨んでいました。

ただ自分の心裡(しんり)に往復しているのは(略)若錦一派の奴に対し、早く本復(ほんぷく)(注・全快すること)して仕返しの大喧嘩をやってやらねばならぬと、そればかりを一縷(いちるい)の望みの綱としていた。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a068

という喜三郎ですが、しかし母の、若錦への恨みつらみを聞くと、逆に若錦が気の毒に思って来ました。それは、自分が撒いた種であることを知っていたからです。

自分は母の言葉の如く、決して父が逝くなった為めに侠客に苦しめられたのではない、つまり自分から招いた災いである事をその時すでに自覚し得たのである。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a278

この辺りは微妙な心理ですが、今まで0だったものが、父が死んでマイナスになったのではなく、今まで義侠心を押さえていてマイナスだったものが、留め金が外れて0になったのであって、実はこれが本当の自分なんだ、という気持ちではないでしょうかね。
母親に、自分が不良にイジめられている、なんて思われたくないのですよ。
その不良に、自分から戦いを挑んだのです。
そしてその結果、負けただけです。

母に続いて祖母が現れ、母とは異なり、喜楽に説教を始めました。

祖母と母はけっこう性格が違うようです。
母の世祢は少々、過保護なところがありそうです。
満で26歳(数えで28歳)になるアラサーの息子に対して、
「親のない子ほど可愛そうそうなものはない」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a101
な~んて言うのは、ちょっと子供扱いしすぎているんじゃないですかね。

いや、これは確実に過保護です。親バカです。26歳なら結婚して子供の1人2人いてもおかしくない年齢です。まして父親が死んだのだから、一家の黒柱になったわけです。そんな大の男を「父親が死んで可愛そう」などという目で見るのは、あまりにもバカにしています。
しかも喜三郎は8人兄弟(男5人、女3人)の長男です。一般に、末っ子に対しては過保護になりやすいですが、上の子に対しては厳しく接したり、あるいは無関心になりがちです。長男に過保護に接するというのは珍しいと思います。
それにそもそもこの時代の平均寿命は55歳前後なので、50代の親が死ぬというのはごくふつうのことです。それを、親が死んだのでいじめられたのだ、可愛そうなどと思うのは、全く異常な心理です。

一体なぜ世祢はこんな親バカなのか。
それはおそらく、喜三郎が有栖川宮熾仁親王の落胤であるということに関係があるのではないのかと思います。
皇族である熾仁親王の御子であるからこそ、大切に大切に思い、それが過保護になってしまったのではないでしょうか?
そのように考えれば、世祢の心理が理解出来ます。
熾仁親王の落胤だという視点で見ると、王仁三郎の修業に関して新たな見解が生じて来るのですが、王仁三郎は自伝の中で熾仁親王について触れていませんので、本稿でもそれについては深入りしないでおきます。

親バカな母親・世祢に対して、祖母・宇能(うの)は厳しい気丈な性格です。
学があり、喜三郎の幼少時にはいろいろ勉強や、言霊学などを教えてあげました。

王仁三郎の言霊学の師匠の一人、大石凝真素美(おおいしごり・ますみ)の、その師匠が中村孝道(なかむら・こうどう)という人で、宇能は中村孝道の家に生まれました。

宇能は中村孝道の娘だとか妹だとか姪だとか、資料によって書いてあることがまちまちです。(→詳しくはオニペディアの「中村孝道」を見て下さい)
王仁三郎本人が書いた資料(故郷乃二十八年)には「祖母は(略)中村孝道の家に生まれた」とボカした表現で書いてあります。

いずれにせよ宇能は中村孝道から言霊学を学び、それを喜三郎に教えたことに違いはありません。

祖父は喜三郎が生まれた半年後に亡くなっており、父親は婿養子で弱い立場にあったので、学問があり、気丈な性格の宇能が事実上、上田家の家長的な役割をしていたのではないかと推測できます。

その祖母は喜三郎に厳しく説諭します。

お前は最早三十に近い身分だ、物の道理の分からぬような年頃でもあるまい。侠客だとか人助けだとか下らぬ事を言って、たまに人を助け、助けたよりも十倍も二十倍も人に恨まれて、自分の身に災難のかかるような人助けは、チッと考えて貰わねばなるまい。
(略)この世に神さまはないとか、哲学とか云って空理窟(からりくつ)ばかり云って、もったいない、神々様をないものにして、御無礼をした報いが今来たのであろう。
(略)昨晩の事は全く神様の御慈悲の鞭(むち)をお前に下して、高い鼻を折って下さったのだ。必ず必ず、若錦やそのほかの人を恨めてはなりませぬぞ。一生の御恩人じゃと思うて、神様にも御礼を申しなさい。
〔第37巻第5章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a203

若錦に恨み言を吐いていた母に対し、祖母は逆に、若錦を恨むな、神様の慈悲の鞭だと思え、と説諭したのです。
それを聞いた喜三郎は、胸に打たれるものがあり、改心することになりました。

…と(祖母に)涙片手に慈愛の釘をうたれて、さすがの喜楽も胸が張り裂けるように思うた。森厳(しんげん)なる神庁に引き出されて、大神の審判を受けるような心持ちがして、負傷の苦痛も打ち忘れ、涙に暮れて、両親の前に手を合わせ、『改心します、心配かけて済みませぬ』と心の中で詫(わび)をしていた。

 老母や母は吾が家を指して帰り行く。あとに喜楽はただ一人悔悟の涙に暮れて、思わず両手を合わせ、子供の時から神様を信仰していながら、ここ二~三年神の道を忘れ、哲学にかぶれ、無神論に堕していた事を悔ゆると共に、立ってもいてもいられないような気分になって来た。

この喜三郎の改心は、母と祖母の絶妙なコンビネーションだったとも言えます。
祖母の説教だけでは、ひょっとしたら喜三郎はムッとしてヘソを曲げていたかも知れません。
その前に母が若錦を非難したことで、喜三郎の心の中に『本当は自分が悪い』という思いが芽生えていたのです。

法律上は、暴力を振るった相手(若錦)が100%悪いはずです。
喜三郎は、ケンカの仲裁に入ったりして、それがいろいろ揉めてしまっただけです。揉めるというのは見解の相違です。意見が違うからと言って暴力を振るうなんて、明治時代でも許されることではありません。
しかし、だからと言って、相手を恨んでみても、何の進展もしません。
同じところをグルグル回り続けるだけです。

母や祖母が来るまでは、喜三郎は「早く本復して仕返しの大喧嘩をやってやらねばならぬ」と思っていました。
やられたらやり返せ、という態度では、いつかは命を落とすことになったでしょう。
ここで気持ちを切り替えることが出来たので、新しい道が開いて来たのです。

何事も世の中は正邪混交、陰陽交代して成立するものである。別に人の商売(注・ヤクザ稼業)まで妨げなくとも、自分は自分の本分を尽くし、言行心(げん・こう・しん)一致の模範を天下に示せばよいのだ。自分に迷いがあり罪がありながら、人の善悪を審(さば)く権利はどこにあろうか……と思えば思うほど、自分が今までやって来た事が恥ずかしく、かつ恐ろしきような気になって来た。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3705#a307

今まで、自分の小さな考え(我)に引っ掛かっていた喜三郎は、こうして、そこから離れることが出来たのです。
グルグル回り続ける無限連鎖の地獄から、脱け出すことが出来たのです。

そしてその夜、神の使者──松岡仙人が現れたのでした。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年9月28日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック