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喜三郎の修業 (21) 暗殺隊

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年06月15日

第37巻に引き続き第38巻にも、大本草創期に王仁三郎が当時の役員信者から排斥され、いろいろとイジメられたことが書いてあります。

時には暗殺されそうになった(第11章)というのですから、ただのイジメではありません。重大な犯罪です。

…自分を排斥しようという、幹部の中の野心家連中の活動が段々露骨になって来た。
川合の大原(旧・川合村の大原…現在の福知山市三和町大原)に泊まった時、十人ばかりの暗殺隊がやって来た。
自分の霊眼には誰と誰とが来て居るという事がすっかり分かっている。
翌日大原を出発して上谷と西原との間の、俗に地獄谷と云っているところへさしかかると、どうしたものか、自分の羽織の紐がほどけて羽織が脱げようとする。
不思議だと思って鎮魂をして見ると、暗殺隊の待ち伏せである事が分かった。
〔第38巻第11章「思ひ出(二)」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3811

このときは機先を制したため、暗殺隊も気抜けがしてしまい、無事に済みました。
しかしまた別の日にも暗殺隊が待ち構えていました。

…ある夜用意のためにお守刀を一本携えて飛び出した。
綾部から二里八町向こうの山路の大原の新屋(あたらしや)という宿屋の便所へ入ると、便所の脇でヒソヒソ話の声がしている。
聞くともなしに聞くと『来たか来たか』と云っている。段々聞くと、杉浦が例の野心家連中としめし合せて、先回りをして待ち伏せしていたので、目的は自分を殺そうというのである事が分かった。
便所の壺をくぐって出るとそこに川がある。
川を渡って藪の中へ這い込んで一晩震えていた。
そのうち夜が明けたから、台頭(だいとう)というところへ行くと、暗殺隊の連中が自分の行くのを待ち受けていた。
そして短刀を出して決心を示したから、喜楽も短刀を出して見せて勝負しようと云ってやった。
自分の決死の意を見て取って少しく恐気(おじけ)がついたものか、とうとう勝負はせずに連れだって綾部へ帰った事があった。
〔同章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3811#a108

さすがに刃物を前にしては喜三郎も言向け和すことが出来ずに自分も刃物を取り出したわけですが、それによって暗殺隊もビビってしまったようです。

しかし本当に殺そうと思うのなら、暗殺隊も躊躇せずに喜三郎を殺せばいいでしょう。
何で殺せなかったのかというと、喜三郎の置かれた微妙な立場が影響したのではないかと思います。

それは神示(筆先)で、喜三郎が重要な役を持っていることが示されていたからです。
その一方で、喜三郎が悪の御用だと言わんばかりの神示も出ていたので、幹部たちは、喜三郎に対して生かさず殺さずの態度で接していたのであろうと思います。
(第13回「小松林命」を参照)

…(注・幹部連中は)自分(注・喜三郎のこと)の所業は一々腑に落ちかねるところから、これは小松林という四つ足の悪の守護神の所業だといって、しきりにその悪の守護神を罵るのである。
それならいっそう喜楽を追い出してくれればよいのであるが、喜楽の肉体は教祖様のお筆先によって、神業のため居(お)らねばならぬ肉体になっているので追い出す事も出来ず、自分の一つの身体を二様に見ているのであるから、たまったものでない。
とうとう六畳敷の一室に入れられて、一挙一動を監視されるようになった。
〔第10章「思ひ出(一)」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3810#a182

というような感じです。
大本に居てもらっても困るし、追い出すことも出来ないし…というような状態だったわけです。

逆に喜三郎の方でも、こんな大本には居たくないし、とは言って出て行ってしまっては自分の使命が果たせないし…という状態だったわけです。

簡単にケンカ別れしてしまったら、互いに修業になりませんしね。
同じ大地の上で一緒に生きていかなくてはいけないからこそ、身魂の修業になるわけです。

しかし明治39年(1906年)頃から綾部の外に飛び出して、2~3年して綾部に帰っています。
その間、神社や、教派神道の御嶽教などで働いて、宗教経営のノウハウを学び、明治42年(1909年)から本格的に大本の経営に取りかかっています。

大阪で謎の易者に「これから十年間の艱難辛苦が訪れる」と
予言されたように(第11回「易者の予言」を参照)、大本に入って十年間はジッと我慢の修業の時期だったのです。

その間の主な出来事をリストアップしてみます。

明治32年(1899年)8月 金明霊学会を設立
明治33年(1900年)1月 出口澄子と結婚
  同年7月 冠島開き(第13章)
  同年8月 沓島開き(第14章)
  同年10月 鞍馬山出修(第18~19章)
明治34年(1901年)4月 元伊勢お水の御用(第20章)
  同年7月 出雲火の御用(第28章)
  同年10月 弥仙山岩戸籠もり(第10章)
明治35年(1902年)3月 長女・直日が生まれる(第12章)
明治36年(1903年)5月 弥仙山岩戸開き
明治37年(1904年)9月 「王仁三郎」に改名
明治39年(1906年)9月~翌年3月 京都の皇典講究所で学ぶ
明治40年(1907年)4月 神職試験に合格
  同年5月~12月 京都の建勲神社で神職として奉職
  同年12月~ 御嶽教で働く
明治41年(1908年)8月 金明霊学会を大日本修斎会と改称
  同年12月 御嶽教を辞して綾部に帰る
明治42年(1909年)2月 機関誌『直霊軍』発行、神殿新築決定

なぜ明治42年頃になって喜三郎は大本で活動できるようになったのかというと、王仁三郎に反対していた頑迷固陋な役員信者たちが居なくなったからです。

立替え立直し(世の終末)の予言が外れたので、失望して大本を出て行ったのです。

…幹部の連中は立替立直しは三十七八年の日露戦争だと誤解していたのだが、そうでなかったために、一人減り二人減り、野心家の中村竹蔵は死に、四十二年頃には教祖様のほかには四方与平、田中善吉のみが残って、後は皆いなくなった。
モウ大丈夫と考えたから自分も帰って来て、熱心に布教に従事し、今日の大本の土台がだんだん出来て来るようになったのである。
〔第12章「思ひ出(三)」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3812#a216

予言が外れたというより、予言の解釈が外れたのですが、それは神を信じていたのではなく、自分の予言解釈を信じていたということになります。
それでは真の信仰とは言えません。
そういう連中が大本から居なくなったので、ようやく王仁三郎が活動できるようになったのです。

しかし、それでもまだ王仁三郎が本領を発揮できたわけではありません。
歴史は繰り返すというか…再び終末予言に熱中する連中が大本の中心を占めるようになり、大正10年(1921年)に世の終末が訪れると叫び出すのです。

その予言解釈が外れて、彼らが大本から出て行った大正10年以降に、本当に王仁三郎が大本の実権を握り、空前絶後の大神業を展開するようになります。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月30日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック