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喜三郎の修業 (16) お歯黒と陣羽織の謎

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年05月07日

喜三郎が初めて綾部へ行って出口ナオと面会したのは、明治31年(1898年)10月8日(旧8月23日)です。
高熊山修業からおよそ7ヶ月ほど後のことです。

このとき喜三郎は、男のクセにお歯黒を付け、陣羽織(じんばおり)を羽織り、手にはコウモリ傘とバスケットを持つという、たいへん奇妙ないでたちでした。

陣羽織というのは武士が陣中で来ていた服で、一見チャンチャンコか、丈の長いチョッキのような感じです。
(例)
http://samue.co.jp/isyou/odanobunaga/nobunaga_500b.jpg
http://www.samurai-store.com/armor/images/acs/jinbaori/Jinbaori01.jpg

文献によっては陣羽織ではなく打裂羽織(ぶっさきばおり)を着ていたと書いてあるものもありますが、どちらも似たような服です。

この変ないでたちのことは、霊界物語には「異様な姿」(第37巻第21章)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3721&mky=a012#a012
としか書いてありませんが、『開祖伝』や『巨人出口王仁三郎』、『大地の母』など他の文献には書いてあります。

ただし、情報が混乱していて、下に括弧書きで書いてあるように、変ないでたちをしていたという時期や場所はバラバラです。

◆『開祖伝』……明治31年旧6月、八木で、福島久子に出会った時。
「綾部の東方に当る八木の福島に縁づかれた久子さんが、母の身の上を見分ける人を捜すため、わざわざ八木の町はずれの虎天堰という灌漑用の堰がある所の枝振りのよい松の木陰に、茶店を開いて待っておられました。
 そこへ手に大きな鞄をさげ、陣羽織のようなものを着、鉄漿をつけた異様な扮装いでたちの青年が一服しました」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100600c22#a025

◆出口京太郎『巨人出口王仁三郎』 p53……開祖伝と同じ。
「喜三郎は、このとき、おはぐろをつけ、陣羽織を着て大きな鞄をさげるという異様な風体をしていたと『開祖伝』にあるが」

◆『大本七十年史』……明治31年10月、綾部で、初めて出口ナオと面会した時。
「一〇月八日(旧八月二三日)、綾部の裏町(現在の若松町)で、喜三郎は、はじめて大本開祖とあった。その日の喜三郎の姿は、陣羽織をきて、口にはおはぐろをぬり、手にはコウモリ傘とバスケットをもつという、念のいったいでたちであった」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1512

◆出口澄子の自叙伝『幼ながたり』……明治32年7月、綾部で、出口ナオと二度目の面会の時つまり喜三郎が綾部に移住した時。
「明治三十二年の梅雨もそろそろあけかける頃のことでありました。私は大原のお茶よりの仕事がすんで、裏町の教祖さまのもとに帰ってきました。
 そのおり私は、不思議な人を見ました。その人は年齢は二十七、八ぐらい、男のくせに歯に黒くオハグロをつけ、もうそろそろ夏に入ろうとするのに、お尻のところでニツに分かれているブッサキ羽織というものを着て、ボンヤリ縁側から空を眺めていました。私は変わったその姿をみながらも何処かで一度見たことのあるような気がして来ました。「安達ガ原」という芝居に出てきた、お公卿(くげ)さんの姿の貞任(さだとう、安倍貞任)に、そっくりの感じでした。」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B124900c27

◆出口和明『大地の母』第6巻p61~「変わった人」……幼ながたりと同じ。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138906c02#a0200

文献によって時期は3つに分かれていますが、3回ともお歯黒・陣羽織だったのかも知れません。

しかしともかく、お歯黒(鉄漿とも書く)に陣羽織という奇妙な格好で西北へ旅立ったことは事実のようです。

   ★   ★   ★

男のクセにお歯黒をしていた、というのは、とても印象に残るスタイルですが、いったいなぜ喜三郎はお歯黒をしていたのでしょうか?

お歯黒は現代のホワイトニングのように歯の汚れを目立たなくしたり、歯並びの悪さを隠したり、また虫歯の予防にも役立っていたようです。
美容と健康が目的ですが、成年の印でもあります。

お歯黒と言ったら女性がするもの(江戸時代は結婚した婦人はみなお歯黒をした)という固定概念がありますが、『幼ながたり』にも書いてあったように、実は昔は公家さんもしていました。
元服(15歳前後)して成人した証しにお歯黒をしたのです。

しかし明治3年に政府から皇族にお歯黒禁止令が出されました。
近代化(西洋化)の一環だと思います。
その後、民間でも徐々に廃れて行ったようです。
(参考 ウィキペディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E6%AD%AF%E9%BB%92#.E6.AD.B4.E5.8F.B2

民間でもお歯黒の風習が廃れつつあったのに、喜三郎はなぜお歯黒をしていたのか?
本人が何も言っていないので(私の調査では王仁三郎本人が言及している文書は見つけることが出来ませんでした)はっきりしたことは分かりませんが、『大地の母』では、祖母の宇能(うの)が喜三郎にお歯黒を付けたのであろうと推測しています。

喜三郎の実父は有栖川宮熾仁親王ですが(出口恒著『誰も知らなかった日本史』参照)、皇族の子であることを意識して、宇能がお歯黒を付けてあげたのだろうという推測です。

喜三郎は明治31年10月の初参綾の時は、移住するのはまだ時期尚早と判断して、2~3日滞在しただけで帰ってしまったのですが、翌年7月、出口ナオからどうしても来てくれと使者が派遣されて来たので、綾部の大本に入ることを決意しました。

故郷を離れ、大きな御神業に従事する一大決心です。
ある意味で、立志の時とも言えます。
皇族は元服の時に初めてお歯黒を付けたようですが、立志して、大人となり(肉体的にはとっくの昔に大人ですが)、旅立って行く喜三郎に、一種の儀式としてお歯黒を付けたというわけです。

『大地の母』から宇能のセリフを少し引用してみます。(『大地の母』第6巻p67)

 宇能は、嫁入り道具の一つであったかなり古びた手箱と、耳だらい・水指し・茶碗を持ち出してきた。灯りを引き寄せて手箱から小さな鉄漿(かね)壷をとり出すと、喜三郎に眼で笑いかけた。(略)

「お前は、もう二十九歳にならはった。お前のお父上さまは、その年頃でどんなお悲しみに耐えられ、御自分の御心を殺されて、なお天皇さまのため、国民のために一身を捧げつくされたことかのう」(略)

「わたしが鉄漿親(かねおや)になりましょう。真似ごとやと笑うたらあきまへん。おそまきながらお前の成人式やと思いなはれ」(略)

「今夜せなんだら、もうお前がわたしの手元に帰る時はありまへんやろ。文明開化の御代になって鉄漿付けの習俗など忘れられ、廃れてきたけれど、遠い昔から鉄奨は堂上公卿の身嗜(みだしな)みの一つでしたんやで。祐宮(さちのみや)さま(明治天皇)は御年十七歳の明治元年一月十五日元服のお式の日に鉄漿を。お前の父上、熾仁(たるひと)親王さまはもっと早く、和宮(かずのみや)さまとの御婚約の時には、元服も鉄漿始めの儀も済んでおられたはず。一度だけそのしるしをつけて、お前のお母さんに見せてやりなはれ。門出のはなむけやでなあ」

『大地の母』では陣羽織も宇能が喜三郎に着せてやったことになっています。
これもまた、軍人だった熾仁親王を意識してのことです。

お歯黒や陣羽織は宇能が…という場面は、著者(出口和明)の想像(創作)です。
しかし、熾仁親王の子であるということを意識した格好だと考えれば、お歯黒・陣羽織という奇妙ないでたちが理解できます。

もちろん、皇族の落胤であることを暗に主張するため…ではなく、決意の表明です。
高熊山修業後、一年ほど地元で宗教活動をしていたとはいえ、いよいよ本格的に宗教活動を開始するのです。
綾部という見知らぬ地で、自分が来ることを反対する連中がいるところに自ら飛び込み、救世の大神業を開始するのです。
その決意です。

お歯黒をして陣羽織を羽織り…という姿は想像するとちょっと笑ってしまうのですが(^_^;)、その背景には、喜三郎のただならぬ決意が秘められていたのだと思います。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月13日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック