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喜三郎の修業 (2) 無神論からの喧嘩道

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年03月25日

霊界物語第37巻は、高熊山修業の前夜に起きた出来事から始まります。

高熊山修業は王仁三郎が自分で進んで行ったことではありません。
神様から強制的にやらされたことです。

大本神諭に
「神が綱(つな)を掛けて引き寄せて御用をさせるぞよ」
というようなフレーズがたびたび出て来ますが、御神業に奉仕する人というのは、自分から進んで御神業に参加するのではなく、強制的に引き込まれるケースが少なくありません。

福知山生まれの桐村ナオが綾部に移住したのも、嫌々ながらでした。
ナオは17歳(数え年)で、綾部に住む叔母(出口ユリ)の養女になったのですが、叔母を嫌って半年ほどで福知山に逃げ帰りました。
すると叔母は井戸に飛び込んで自殺してしまい、その亡霊がナオの枕元に現れて福知山に帰ったことを厳しく責め立てたのです。
ナオには相思相愛の婚約者がいましたが、その縁談をあきらめて、仕方なく綾部に戻ったのでした。
こうしてナオは強制的に神業に引き込まれて行ったのです。

しかし現界的には無理強いされて嫌々ながら行ったとしても、霊魂の上から見たら、それを行うために生まれて来た、と言えます。
つまりもともとそういう使命を持っていたのです。
しかし生まれて来たときにそれを忘れてしまったので、それを思い起こさせるために、神様は「綱を掛けて」、強制的に神業という重力圏に引き込んでしまうのです。

王仁三郎が、高熊山での霊的修業を強制的にやらされたのも、そういうことです。
もともと世界を救う使命をもって生まれた王仁三郎ですが、生まれた時からそのことに気づいていたわけではありません。
それを思い出させるために、神様からいろいろな試練を与えられ、そしてその仕上げとして高熊山修業をさせられたのです。

自分はそれまでに二十七年間の俗界での悲痛な修行を遂行した。
その卒業式ともいふべきものであつて、生存中ただ一回のみ空前絶後の実修であつたのである。
〔第1巻第2章「業の意義」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0102#a037

この修業に至るには、その半年前ほど前から伏線が引かれてありました。
明治30年(1897年)の夏、喜三郎が27歳(数え年)の時に、父の上田吉松(きちまつ)が「ブラブラ病」という原因不明の病で死んでしまったのです。

ブラブラ病とは、現在「慢性疲労症候群」と呼ぶ病気のことではないかと思います。体が非常にだるくて仕事や家事が出来ないとか、とても疲れやすいとか、そういう症状が出る病気です。(参考1参考2

吉松は2~3年間、ブラブラ病で苦しんでいました。
喜三郎は信仰によって父の病を治したいと思い、付近の教会に通いました。

あるとき父が、屋敷の中にある椋(むく)の木を薪(まき)にしたいから伐ってくれと頼むので、喜三郎は言われた通り伐り落としました。
それから父の病態が悪化して、半年ほど苦しんだ挙げ句に、7月21日、54歳で亡くなってしまったのです。

この椋の木はちょうど屋敷の鬼門(東北)に位置していたため、鬼門の木を伐った祟りだとか、あるいはまた裏鬼門の池(久兵衛池)を埋めようとした祟りだとか、何とかかんとか親戚や友人が口々に言い立てました。

ここから先は『聖師伝』から引用します。

喜三郎さんはその問題(注・祟りのこと)を解決するために宮川の妙霊教会や亀岡のヒモロギ教会などへ行って質問をしましたが、いっこう要領を得ず、この上は直接神教をうけるより外はないと決心せられて、毎晩十二時から三時まで産土神社に行って神教を乞われた結果、鬼門の金神と裏鬼門の金神の由来から、その神聖な理由を明かにされました。

喜三郎さんは大いに勇気づけられ、すすんで各教の教義をさぐり、誤った宗教界を改善しようと考えられましたが、いろいろな教会に出入しているうちに、教会の迷信ぶり、堕落ぶりに愛想をつかし、それからは神だとか、宗教だとか、信仰だとかということは見るもイヤ、聞くもイヤというようになり、一時は無神論者にさえなられました。

〔聖師伝 11父の死〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100800c11

妙霊教会とかヒモロギ教会というのは、キリスト教会ではなく、神道系の新興宗教です。
また産土神社とは、開化天皇を祭る小幡神社(喜三郎の生家のすぐ近くにある)のことです。

この無神論者になったというエピソードは、霊界物語の第37巻第16章の最後の方から、第17章にかけて詳しく書いてあります。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3716#a260
「明治二十九年の春の事であった」からです。

ここを読んでいただければ分かりますが、の「余部(あまるべ)のお稲荷サン」と呼ぶ教会の、高島ふみ子という「お台さん」つまり霊能者の女性は、夫と共にインチキ宗教を開業して信者を集め金を儲けていたのです。

舞台裏を見て彼らの霊能がイカサマだと知ってしまった喜三郎は、信仰が醒めてしまい、「それから三十一年の二月、二十八歳になるまで(注・つまり高熊山修業の時まで)、神様に手を合わすのがいやになり、極端な無神論者になってしまった」〔第17章の真ん中あたり〕というのです。

ところで、神教を乞いに小幡神社に3週間通い「三大学則」を得たのは明治30年旧8月下旬(新10月頃)です。〔本教創世記 第三章を参照〕

ですから──
明治29年春から無神論者になり、
明治31年2月まで神様に手を合わすのがいやになった のにもかかわらず、
明治30年秋に神社に21日間通って神教を乞うた というのは、
何だか言っていることがとても矛盾しています。

が、王仁三郎が書いたものをよく読んでいるとこういう矛盾はよくあるので(笑)この細かい矛盾は無視して、高熊山修業の直前までは「この世に神なんているものか!」というように思っていた、ということだけ押さえておきましょう。

喜三郎は父の死後、穴太のケンカ番長となります。
彼は幼少時から正義感が強く、反骨精神のある性格でしたが、父に迷惑をかけまいとして、他人とケンカするようなことは避けていました。

父の死をきっかけに、その自制の留め金が外れ、一挙に噴出したようです。
それで地元のヤクザ者を相手にケンカをするようになり、半年ほどの間に9回もの大ゲンカをしてしまいました。

霊界物語から引用します。

実際の事を云えば自分は、今まで父がブラブラ病で二~三年間苦しんでいたので、それが気にかかり、云いたい事も云わず、父に心配をさせまいと思うて、人と喧嘩するような事はなるべく避けるようにしていたから、村の人々にも若い連中にも、チッとも憎まれた事は無く、かえって喜楽さん喜楽さんと云って重宝がられ、可愛がられていたのである。

そうしたところ、明治三十年の夏、父は薬石(やくせき)効なく遂に帰幽したので、最早病身の父に心配さす事もなくなった。破れ侠客が田舎で威張り散らし、良民を苦しめるのを見るたびに、聞くたびに、癪(しゃく)に触わってたまらない。

頼まれもせぬのに、喧嘩の中へ飛び込んで仲裁をしたり、しまいには調子に乗って、無頼漢(ぶらいかん)を向こうへまわし喧嘩をするのを、一廉(ひとかど)の手柄のように思うようになった。

二~三遍うまく喧嘩の仲裁をして味を占め、『喧嘩の仲裁には喜楽さんに限る』と村の者におだてられ、ますます得意になって、『誰か面白い喧嘩をしてくれないか、また一つ仲裁して名を売ってやろう』と下らぬ野心にかられて、チッと高い声で話している門を通っても、聞き耳立てるようになっていたのである。

〔第37巻第2章〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702#a112

ケンカの種がないか探し回っていたというのですから、まったくたまげた話です。

そして最後の9回目の大ゲンカで、袋叩きにされ、頭を負傷し、こてんぱに叩きのめされてしまったのです。

後に天地の神の洪恩を説き、「言向け和す」を唱えるようになる王仁三郎も、霊的覚醒の直前には、こんなふうに無神論に堕し、ケンカに明け暮れるような人生に転落していたのです。

順風満帆な人生を送っている人で、神に目ざめる人はそう多くはないと思います。
それまでの人生に、疑問を持ち、別れを告げ、新しい人生を送るためには、一度はとことんまで落ちなくてはいけないようです。
『こんな人生は嫌だ』と思わないことには、新しい人生を踏み出せません。

この喜三郎の、高熊山修業の前2~3年間のエピソードから、何を教訓として学べるでしょうか?

人それぞれ感じるものがあると思いますが……
私は「やろうと思ったことは自制せずに進んで行け」ということを感じました。

このとき喜三郎が、父の死後も自制して、他人とケンカするようなことを避けた人生を送っていたら、一体どうなっていたでしょうか?

世間一般には、それがまっとうな人生だと誉められるのですが、しかし人にはそれぞれ人生でやらなくてはいけないことがあります。
やるべきことをやらなくては、先に進めません。

世間体を気にして、やりたいことをやらずに、悶々とした日々を過ごしているのでは、とうてい、自分がこの世に生まれて来た使命を果たせるとは思えません。

やりたいことをやろうと、突き進んだ結果、悪しき状態に陥ったとしても、そこからの復活・再生が待っています。

ある意味では、それまでの人生でたまったカルマを解消しているのかも知れません。
それが単に悪い状態に見えているだけかも知れません。

喜三郎がケンカ番長になったのも、結局、それまでの人生で受けた社会からのさまざまな軋轢の、そこから生じる様々な欲求不満を、ヤクザとのケンカという形で、一気に解消したのだとも言えます。

そしてクリーンでクリアな気持ちになった後に、神様の御用に仕えることが出来るようになったのだ……
と見ることが出来ます。

「使命」とか言っても、実際には自分がこの先何をやることになるのかなんて、とうてい分からないと思います。

自分の願望として持っている「使命」と、実際に神様から与えられた「使命」とは、必ずしも同じとは限りません。

この道の先に何が待っているのか……
それは進んでみないことには分かりません。

喜三郎は己の自制の留め金を外してケンカ道を突き進んで行った結果、その先に、神の道が待っていたのです。

(続く)

次の文献も参考としてお読み下さい
〔聖師伝 12青年時代の煩悶〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100800c12
〔大地の母2 05三大学則〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c05


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年9月25日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック