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喜三郎の修業 (14) 信仰の鍛錬

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月30日

明治31年(1898年)旧6月(詳しい日は不明)、喜三郎に小松林命が神懸かりして、次のように命じました。

「一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組がしてある。お前の来るのを待っている人がある。何事にも頓着(とんちゃく)なく速やかにここを立って園部の方へ向かって行け!」〔第37巻第20章の最後〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3720#a305

こうして喜三郎は故郷を旅立つことになります。

「お前の来るのを待っている人がある」なんて、嬉しい話ですね。

山口百恵の『いい日旅立ち』は「ああ日本のどこかに私を待ってる人がいる♪」でした。
それはおそらく「いるはず」とか「いて欲しい」という期待・願望だと思いますが、喜三郎は神示によって「いる」と断言されたのですから、これはたいへん嬉しいことです。

しかしその神示を信じることが出来るかどうかが肝心です。
他人に懸かった神霊にせよ、自分に懸かった神霊にせよ、その神霊が語ることが必ずしも正しいわけではありません。
悪霊がウソをついて騙している可能性もあります。
迂闊に信じてしまうと、破滅の道を転がり落ちることになります。

第37巻の第2~3篇(第7~20章)には、邪霊に騙された霊媒者のエピソードがいくつか出ています。

たとえば第16章後半~第17章に出て来る「高島ふみ子」という女性にはお稲荷さんが懸かり、杉山という男と一緒になって盛んに人を集めて宗教活動をしていましたが、舞台裏ではインチキをやっており、イカサマの霊術を見せていたことが記されています。(これは高熊山修業前に体験したエピソードです)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3716#a221

また、第20章後半には、下司熊(げしくま)こと下司熊吉(げし・くまきち)という男が、斎藤静子という妻と一緒に神懸かりをやって、相場占いで金銭トラブルを起こし、インチキ宗教で一稼ぎしたものの、やがて流行らなくなり、最後には睾丸炎で死んでしまったという話が記されています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3720#a138

みな、変な霊が懸かってそれを信じてしまい、妄動・悪業に走ってしまったのでしょう。

しかし喜三郎に懸かった霊(松岡神使や小松林)も、牛糞を掴ませたり(第9章)、役者にしてやろうと言われて挫折させられたり(第19章)、けっこう色々と引っ掛け回しています。
そこの部分だけ取り上げてみたら、高島ふみ子や下司熊らと同様の悪霊憑きにしか見えません。

もちろん、高熊山修業や、静岡の長沢雄楯と出会ったことなど、数々の奇跡・神秘現象もあり、憑霊が正神であることを十分に信じるだけの現象が起きているのですが、しかし騙されるようなことがあると・・・ちょっと信じられなくなりますね。

そうやって神様は信仰を試します。
右に左に転がして、それでも信じることが出来るのか試すのです。
信仰を鍛えているとも言えます。
また、こういうときに、こういうことをすると、こういうことになるという、ハウツーを学ばさせているとも言えます。
牛糞騒動も役者騒動も、喜三郎に下心があったからに他なりません。

信仰とか信念いうのは、人が持つ一種の技術・能力であると思います。
信じることもそうだし、愛することもそうです。

料理を作るとか、文章を書くとかいうのと同じように、技術・能力です。
だから、色々な体験を積みながら、学習し、養い、磨いて行かねばなりません。

それがために、色々な苦難が降りかかってくるのだとも言えます。

喜三郎に小松林から「西北へ行け」と神示が下った直前にも、苦難が降り注いでいました。
喜三郎は下司熊に騙されてお金を巻き上げられてしまい、そのことに怒った弟の由松(よしまつ)が、「この神はめくら神だから、兄貴のバカが騙されているのを黙って見ていやがった。腰抜け神だ。もうオレのうちには置いてやらぬ」と言って、祭壇をひっくり返して暴れまくったのです。

それで、どうしたらいいのか産土の小幡神社に行って神勅を請うたところ、小松林から「西北へ行け」と神示が下り、それで「故郷を離れることを決意した」のです。

王仁三郎にせよ、出口ナオにせよ、最初から、神示に従っていたのではありません。
悪神ではないのか、騙されているのではないのかと疑いながら、その神と対話し、付き合って行ったのです。
つまり審神(さにわ)をして行ったのです。

おそらく、最初っから信じてしまっては、いけないような気がします。
そこが正しい道か悪しき道かの分かれ目のように思います。

それは、神懸かりして下りた神示に限りません。
信仰とか、信じる、ということ全般に通じます。
神社でおみくじをひいたり、占い師に相談に行ったりするのも同様です。
それを信じる自分がいるわけです。

信は芯であり、人間の芯となるものです。

現代はネット社会となり、ウソ情報が氾濫して、右往左往するような状態となっていますが、それは神様から「信じる」力を鍛錬させられているのではないかと思います。

「信じる」と言っても、頭から鵜呑みにしてはいけないのです。
どういう情報を信じればいいのか。
何を、どう信じたらいいのか、その能力・技術を養うことを、人類はやらされているのではないかと思います。

変な霊(情報)に騙されて破滅の道を歩まないようにするためには、牛糞を掴まされるような失敗経験も必要となって来ます。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年11月6日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (13) 小松林命

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月24日

旅館に宿泊代をぼったくられてお金が無くなってしまった喜三郎は、仕方なく郷里の穴太に帰ることになります。
元カノ(斎藤いの)の実家に一泊し、翌日帰るのですが、手元には2銭半しか残っていません。

ネットで調べると、明治30~40年代の東京の国鉄初乗り運賃は5~6銭だったようです。だから2銭半ではとうてい汽車に乗れません。
そこで線路を歩いて帰ったと歌で記されています。〔第37巻第14章「夜の山路」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714#a149

大阪から穴太まで「十三里」(52km)の道のりです。マラソン(42.2km)より長いですね。
現代人だったら挫折してしまう距離ですが、当時は鉄道も自動車もまだまだ発展途上で、徒歩移動が当たり前の時代ですので、このくらいなら一日で歩けてしまうようです。

この歌の中に「四月十五夜の月は」云々と出て来るので、帰郷した日は旧4月15日、新暦だと6月3日だったことが分かります。
大阪に出向いた日は分かりませんが、二週間旅館に泊まり、元カノの実家に一泊したので、おそらく計15日滞在したのではないかと思われます。

ここで、高熊山修業からの出来事を簡単にまとめてみます。

新3月1日(旧2月9日)高熊山修業開始
新3月7日(旧2月15日)正午 帰宅
新3月9日(旧2月17日)早朝 体調に異変 床縛りの修業開始
新3月15日(旧2月23日)床縛りが終わる
幽斎修業を始める
新4月3日(旧3月13日)(神武天皇祭)三矢が訪問
新4月13日(旧3月23日) 静岡へ 長沢雄楯に弟子入りする
新4月22日(閏3月2日) 帰郷
新5月20日(旧4月1日)? 大阪宣教へ
新6月3日(旧4月15日) 帰郷

わずか三ヶ月の間に、喜三郎は実に多くのことを体験していますね。
それから二ヶ月後に、八木の茶店で福島久子(出口ナオの三女)と出会うことになるのですが(第21章)、第15~19章はそれまでの間に起きた出来事です。
複数の女性の憑霊現象が物語られています。

第15章 石田小末
第16章 岩田藤
第17章 高島ふみ子
第18章 多田琴と石田小末
第19章 阿栗(おぐ)

これらのエピソードは割愛します。直接、霊界物語を読んで下さい。

第19章の前半に書かれている役者騒動について書いておきます。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3719

喜三郎は、壮士芝居の役者を募集する広告が新聞に載っているのを見ました。
壮士芝居とは「自由民権思想を広めるために始めた演劇」〔デジタル大辞泉〕で、後に新派劇へと発展して行ったジャンルです。
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AE%E5%A3%AB%E8%8A%9D%E5%B1%85-89399

喜三郎がその広告を見ていると、多田琴に小松林命(こまつばやしのみこと)という神霊が懸かり、役者にしてやろう、と喜三郎に言います。

喜三郎は広告を見て、自分も役者になってみたいと思っていたので、大喜びしました。
早速、お金を15円集めて京都へ行き、10円の入会料を払って劇団に入り、稽古に励み出しました。
しかし、お尻に大きな腫れ物が出来てしまい、痛くてたまらず、芝居どころではなくなります。

すると喜三郎に松岡神使が懸かって大声で嘲笑います。
「役者になりたそうにしておるから、ちょっと改心のためになぶってみたのだ」

喜三郎は仕方なく故郷に帰ると、お尻の腫れ物はすっかり完治してしまいました。

世界を救うという重大な御用があるにもかかわらず、役者になってみたいというような浮気心を抱いたため、改心させるため神様が苦難を与えたのです。

「それきり壮士俳優になってみたいという心は、スッカリ消え失せ、一心不乱に神界の御用に尽くすという心になったのである」
と王仁三郎は霊界物語に書いています。

自分が進むべき道から逸れてしまったため、神様から気づきを与えられたのだ、とも言えるでしょう。

   ★   ★   ★

この小松林ですが、王仁三郎の前半生に出て来る重要な人物の一人です。
松岡天使と共に、王仁三郎の活動初期に懸かっていた憑霊の一つで、明治32年に綾部に移住してからは、当時の大本の役員信者に「小松林の悪神が懸かっている」ということで攻撃材料にされました。

第9章で、「小松林の命令」で現れた大霜天狗は、財布だと思わせて牛グソを掴ませました。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3709#a026

第19章では、喜三郎に「役者にしてやろう」なんて甘い餌をまきました。
このように小松林はイタズラ好きの神霊ですが、悪神と言うのはちょっと言いすぎです。

それがなぜ悪神扱いにされたかというと、出口ナオ開祖の筆先で、小松林が守護している間は、喜三郎(緯、瑞霊、変性女子)は開祖(経、厳霊、変性男子)に敵対すると出たからです。
○参考 大本神諭 明治36年旧6月14日
「この緯役は小松林の守護の間は、男子を敵対うて…」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os246&mky=a013#a013

開祖に敵対すると神示が出たので、悪神とされたのです。
それで役員信者たちは、その悪神が懸かる喜三郎を排斥したり、早く改心せよと迫ったのです。

この小松林とは何者かと言うと、多田琴に懸かった小松林が「わしは男山(おとこやま)の眷族・小松林命であるぞ」と言っています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3719&mky=a005#a005

男山とは石清水八幡宮(京都府八幡市)が鎮座する山で、明治期には男山八幡宮と称していたようです。
○ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE
(石清水八幡宮は、京都の裏鬼門を守る神社ですね)

…余は常に、この神と入魂となり、余が修行中、すなわち十か年間は、小松林の御名を拝借する事を赦されたり。
 付記す。小松林は八幡宮の高等なる眷属神にして、生前は武士なり。神功皇后の軍に従いて、三韓を征し玉いし英雄なりしなり。
〔本教創世記〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c16

というように、小松林命は生前は武士で、神功皇后に従い三韓征伐に出征したと王仁三郎は書いています。
それは竹内宿禰(たけのうちすくね)のことです。
○聖師伝
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B100800c16#a058

また小松林命は「素盞嗚尊の分霊」でもあります。
○大本七十年史 上
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1511

そしてまた王仁三郎は、「後小松天皇」(第100代天皇。南北朝が統一した最初の天皇)は小松林の霊だとも言っています。
○『新月の光』上巻p306「後小松天皇」

小松林という神霊が喜三郎のもとに現れたのは、高熊山修業の時からで、いろいろと神示を与えています。
「三大学則」はその時に小松林から伝えられたもので、
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121805c232
「いろは歌」や「太古の神の因縁」も小松林が伝えたものです。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c03
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121801c24

小松というのは、小さな松、若い松という意味ですが、高熊山の山頂は、当時は小松が茂る林だったというので、そこからのネーミングかも知れません。

開祖に敵対する役だと筆先で言われた小松林命ですが、大正5年の神島開きの折りに出た筆先で、ミロクの神の系統だということが明らかにされました。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os250

この小松林命が、喜三郎に
「西北へ行け。お前を待っている人がいる」と神示を下し、
福島久子、そして出口ナオと出会うことになるのです。

(続く)


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喜三郎の修業 (12) 女性関係

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月22日

話は少し戻り、喜三郎が宣教のため大阪に到着した直後の場面です。

喜三郎が大阪という見知らぬ地で最初に頼ろうとしたのは、お国サンでした。お国サンは幽斎修業者の一人・多田琴(ただ こと)の母親です。

夫(多田亀)と離婚し、大阪に住んでいたお国サンの家に、多田琴が布教がてら滞在していたので、喜三郎はそこに行って多田琴と二人で大阪で大宣伝を試みようと考えました。

しかし、お国サンの名字も住所も知らなかったので、交番で尋ねても家がどこか分かりません。
穴太の田舎の感覚で、「お国サン」と名前だけ言えば誰だか分かると思っていたようです。

そこでふと思い出したのが、穴太の自宅の隣りに住んでいた斎藤佐市という人が、大阪の空心町(くうしんまち)というところで餅屋を開いているということでした。
このことは前回書きました。
喜三郎は斎藤佐一宅に行こうとして人力車に乗ったら、料金をボッたくられてしまい、斎藤佐市と会うことは出来ましたが、家が狭いので近くの旅館に案内され、そして二週間後、有り金を巻き上げられてしまったのです。〔以上、第13章「煙の都」〕

空心町は今は地名は残っていませんが、現在の大阪市北区天満一丁目~三丁目の辺りです。造幣局がある地域ですね。
https://onipedia.info/wiki/%E7%A9%BA%E5%BF%83%E7%94%BA

お金が無くなった喜三郎は帰郷する前に、もう一度、空心町の斎藤佐市宅を訪れました。〔ここからは第37巻第14章「夜の山路」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714

するとそこに、佐市の娘の一人「いの」(おいの)が来ていました。

いのは実は喜三郎の元カノです。4年前に別れた恋人です。
すると母親が気を利かして、狭い家だけど泊まって帰れというので、妹の富野と5人で四畳半に雑魚寝することになりました。

しかし夜10時頃、姉の「お秋」が人力車でやって来て、いのを連れて帰ってしまいました。
この出来事は霊界物語(第37巻第14章「夜の山路」)を読んでいるだけでは、舌足らずでちょっと意味がよく分かりません。
出口和明著『大地の母』を読むとよく分かります。
もちろん『大地の母』は小説ですので推理・創作の部分もありますが、意味は通じます。

いのに関するエピソードは第2巻の次のところに出て来ます。
○穴太精乳館、百日養子、煙の都 (みいづ舎版 第2巻p64~137、p353)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c03
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10

大地の母で「わき」と書いてあるのが、霊界物語の「お秋」のことだと思います。(「あき」が「わき」に転訛した?)
いのは大阪に嫁いだ姉(わき)の家に同居しており、たまたま空心町の両親の家に会いに来ていたのだろう…と大地の母では推測しています。

大地の母は、霊界物語第37~38巻や本教創世記など、王仁三郎が書いた自叙をベースに、あちこち取材・調査した書いた、王仁三郎の前半生を描いた歴史小説ですが、霊界物語とよく読み較べてみると、ところどころに食い違いが見られます。

たとえば、いのの妹・富野(とみの)の年齢は、霊界物語では16~7歳と書いてありますが、
「十六七の富野といふ妹が」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714&mky=a009#a009
しかし大地の母では20歳と書いてあります。「二十歳の富野が」(みいづ舎版 第2巻p384)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10&mky=a1050#a1050

また、喜三郎がいのと別れたのは、霊界物語では4年前と書いてありますが、
「四年以前に一寸悶錯を起して別れた娘」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714&mky=a006#a006
大地の母では2年前と書いてあります。「二年前喜三郎との仲を裂かれて、いのは大阪に去った」(みいづ舎版 第2巻p377)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10&mky=a0812#a0812

どちらかが間違いなのだと思いますが…たぶん霊界物語の方が間違っているのではないかと思います。
王仁三郎本人が書いているのに間違いがあるのか、と思う人もいるでしょうが、そうです、間違いと思われる箇所がけっこうあちこちにあるのです。前々回の記事(喜三郎の修業 (10) 本田親徳と長沢雄楯)で、喜三郎が初めて静岡の長沢雄楯の元を訪ねた日付が、王仁三郎本人が書いた3種の資料で異なっているということを指摘しましたが、日記に書き留めておいたわけでもなく、記憶に頼って書くのであれば、数字的なことはあやふやになってしまっても仕方がないと思います。
大地の母は著者(出口和明)が戸籍やお寺の過去帳など、色々な資料を調べて書いているので、こういう数字的なことはおそらく大地の母の記述の方が正確なのではないかと思います。しかし良く分からないので数字的なことはあまり深く追求しないで下さい。(^_^;)

さて、数年前に斎藤いのと恋愛に落ちた喜三郎は、明治29年(1896年)春、つまり高熊山修業の2年前、いのと結婚したいと父・上田吉松に告白しています。

しかし父は反対しました。
回顧歌の「相聞」には、うちは農家だから色白くて、か弱い女は嫁に取らぬと言って父が反対した、と歌われています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c55

その春、いのは大阪へ引っ越してしまい、そして8月に大阪で結婚することになり、この恋は終わりました。

その元カノと2年後に大阪で再会したのですが、よりを戻したいとか、そういう下心があったわけではありません。
「この時の喜楽は一切の情欲に離れ、ただ信仰一点張りに酔っ払っていた時だから、昔の女に出会い、一間に寝た所で、
別に旧交を温めようとも何ともそんな考えは持っていなかった。しかしながら何となくなつかしいような気がして、その女と同じ家に一宿することを嬉しく思うていたのである」
と書いてあります。〔第14章「夜の山路」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714&mky=a018-a023

   ☆   ☆   ☆

ところで喜三郎の恋愛関係は、私が知るだけで、8件あります。
恋多き青年だったようです。
丹念に調べればもっとあるかも知れません。
すべて、高熊山修業の前までの恋愛です。
どのくらいまで親しい関係だったのか、王仁三郎本人が詳しく語っているわけではないのでよく分からないのですが、最後の2件は、籍は入れてないものの、事実婚です。

この恋愛体験は主に『出口王仁三郎全集』第8巻の回顧歌に記されています。
しかし固有名詞が書いていないため、相手が誰なのか判然としません。
大地の母では固有名詞を入れて書いてありますので、そちらの情報を含めてリストアップしてみましょう。
年代はおおまかなものです。

◆(1) 明治24年 20歳 初恋の「斎藤蘭」が結婚してしまい、失恋
○出口王仁三郎全集 第8巻 初恋
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c20
○大地の母 第1巻 久兵衛池事件、多情多恨、安閑坊喜楽
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c04 ~06

◆(2) 明治26年 22歳 「八木弁」と恋愛
○出口王仁三郎全集 第8巻 観音堂
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c34
○大地の母 第1巻 安閑坊喜楽、亀山城、園部殖牛社
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c06
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c07
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c08
○大地の母 第2巻 ラムネの泡
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c02&mky=a0666#a0666

◆(3) 「お仙」
○出口王仁三郎全集 第8巻 毛布、晩秋
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c38
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c39
○大地の母 第2巻 安閑坊喜楽
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c06
○大地の母 第3巻 色ぼけ欲ぼけ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138903c03

◆(4) お松後家の一人娘「お鈴」との恋(自然消滅)
○出口王仁三郎全集 第8巻 靴音
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c40
○大地の母 第1巻 愛おとめ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c09

◆(5) 明治28年 24歳 「安達志津江」と恋愛するが、結婚してしまい破局
○出口王仁三郎全集 第8巻 相思、留守、逆耳、血潮、夢現
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c58 ~62
○大地の母 第2巻 ラムネの泡、百日養子
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c02#a0427
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04

◆(6) 明治29年 25歳 隣家の娘で幼なじみの「斎藤いの」と恋愛するが、結婚してしまい破局
○出口王仁三郎全集 第8巻 相聞、紅筆
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c55 ~56
○大地の母 第2巻 穴太精乳館、百日養子、煙の都
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c03#a0289
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04#a0110
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10#a0803

◆(7) 明治30年 26歳 「斎藤しげの」と結婚し斎藤家の婿養子となるが、義父とケンカして百日で出て行く(入籍はしていない)
○出口王仁三郎全集 第8巻 養子、百日
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c63 ~64
○大地の母 第2巻 百日養子
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04#a0584

◆(8) 明治30年 26歳 「多田琴」と内縁関係になるがしばらくして別れる
○出口王仁三郎全集 第8巻 髪梳
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c72
○大地の母 第2巻 百日養子
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04#a0998

というわけで、喜三郎は明治33年(1900年)に出口澄子と結婚する以前に2度、事実婚をしていました。

この最後の「多田琴」という名前に聞き覚えがあると思います。
冒頭に記しましたが、幽斎修業者の一人です。

最初に口切り(霊が懸かってしゃべり出すこと)をした女性です。〔第37巻第7章「五万円」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3707

霊界物語には、単に「多田亀という老侠客の娘」としか書いていないのですが、実は喜三郎の元カノだったのです。
いちおう、「ある機会から妙な仲となっておった」とは書いてますが、
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702&mky=a212-a214#a212
まさか内縁の妻だったとは、霊界物語を読むだけでは分かりません。

霊界物語執筆当時はすでに澄子さんと結婚していたので、配慮して、その辺りはわざとボカして書いたのかも知れません。

ところで、この女性たちと破局に至った原因は、いずれも相手とケンカしたのではなく、仕方なく別れることになったようです。
昔の結婚は、家と家との結婚という側面が強かったですから、相思相愛でも結婚できるとは限らなかったのです。
貧乏だからとか、親に気に入られなかったとか、そういうことで別れざるを得なかったようです。

喜三郎は大阪で斎藤いのの親の家に泊まりましたが、元カノの親の家に泊まるなんて、ケンカ別れだったら絶対できませんよね。

ケンカ別れではないので、彼女たちとの関係はその後も良好だったようです。
大地の母には斎藤しげのに関して、次のように書いてあります。

 喜三郎と恋愛したすべての女性がそうであるように、彼女もまた、晩年になっても、喜三郎の日常を知る人に会えば、必ず「喜三やん、どうしとってえ。元気にしとってけ」と、さも懐かしげに様子を知りたがったという。
〔大地の母 第2巻 百日養子〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04&mky=a0933-a0940#a0933

元カノにそんなふうに思ってもらえるなんて、王仁三郎の人徳ですね。
ケンカ別れだったら、そんなふうにはなりませんもんね。
「思い出したくもないッ」というかんじじゃないですか?

王仁三郎は元カノへの対応を次のように語っています。

 五倫五常の道の廃れた支那でさえも、敬老尊師の道は残っている。いわんや君子国たる日本においておやだ。しかるに、この美風が衰えきってしまっているのは実に歎(なげ)かわしい次第である。
 他人でありながら、親にもまして自分を教育して下さるのは先生だから、師はどこまでも大切にせねばならぬ。忠信孝悌の道が廃れてどうして人間の道が立つものか、立替立直しが出来るものか。
 王仁(わたし)は残されたる唯一の恩師・長沢(雄楯)先生を親よりも大切に思っている。先生もお年を召していらっしゃるから、御達者な間に天恩郷や綾部の状況もお目にかけたし、嵐山の花も御案内したい。近々王仁自身でお迎えに行くつもりである。
 王仁は恋人に対しても同様な考えをもっている。次から次へと移ってゆく友愛結婚なんかとは反対に、若い時一度でも交渉のあった女(ひと)は永久に忘れぬ。その女が死んだらその子供のために尽してやる。王仁の命のある間は墓参りもしてやる。それが本当の人情ではないか。
 この点、頭山(満)翁も同意見で、馴染んだ女の墓参りを今もすると話しておられた。
〔玉鏡「敬老尊師」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg478

王仁三郎は実に人情の深い人ですね。
私もこういう人間に(なかなかなれませんが)なれるように努力したいものです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月30日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (11) 易者の予言

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月20日

喜三郎(霊界物語の中では「喜楽」)は松岡天使の命令により、一人で大阪へ出向き、宣教することになりました。具体的な月日は不明ですが、明治31年(1898年)の旧3月のことです。

およそ2週間の大阪滞在中に体験した色々なエピソードが第37巻の第13~14章に書いてあります。

   ☆   ☆   ☆

●人力車に乗ったらぼったくられた
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a025

大阪で喜三郎は人力車に乗り、車夫に「空心町(くうしんまち)の斎藤佐一という餅屋」へ行ってくれと行き先を告げました。
斎藤佐一は穴太の喜三郎の自宅の隣りに住んでいた人で、今は大阪で餅屋を出していたのです。そこを訪ねようと思い、地理がよく分からないため人力車に乗ったのです。
しかし人力車は町中を一回りした挙げ句、乗った場所の近くで喜三郎を降ろして、料金を請求しました。
目的地は乗った場所の近くだったんですが、喜三郎が田舎者で大阪の地理に疎いと見てとった車夫は、遠回りして高い料金を請求したのでした。

今でもよその国では、外人旅行客を相手にぼったくるタクシードライバーがいるようですが、日本にも昔はいたのです。

●旅館に有り金のほとんどを巻き上げられた
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a105

喜三郎は同郷の斎藤佐一の餅屋に寄った後、斎藤に紹介された旅館に入りました。
この「玉屋」という旅館に二週間ほど滞在しながら、宣教のため町に出かけていたのですが、番頭が「お金を盗まれると大変だから私が預かる」と言うので持っているお金を預けました。

喜三郎は旅費として50円を調達して大阪に来ました。
そのうちの40円を番頭に預けたのです。
すると二週間後に、預けていた40円のうち39円20銭を宿泊料として請求されました。
一泊2円80銭になる計算ですが、以前に田舎で泊まった時は一泊25銭だったので、高額な請求に驚きました。

仮に現代のビジネスホテルに置き換えると、地方だと一泊素泊まりで4000円くらいでしょうか。2円80銭だと、現代なら一泊4万5千円くらいの高級ホテルのような感覚だと思います。
喜三郎が田舎者で無智だと思い、番頭は大金を請求したのでした。

しかもこのお金は家屋敷を抵当に入れて借りたお金でした。
それを巻き上げられてしまったのです。
滞在費用が無くなってしまい、喜三郎は大阪を離れて帰郷する羽目になりました。

   ☆   ☆   ☆

この2つのエピソードは、特に宗教に関係があるわけではありませんが、田舎しか知らない喜三郎にとって、人間の欲望が渦巻く都会の恐ろしさを知る良い体験だったに違いありません。
郷里の穴太でも、荒んだ人々に色々と圧迫を受けて来たわけですが、「世界を救う」という使命を持っている以上は、もっと酷い世界の実情を知る必要があります。
その第一歩となる修業だったと思います。

しかし松岡天使はそんな体験をさせるためだけに、わざわざ大阪に行かせたわけではありません。
神の教えを宣伝するために行かせたのです。
しかしそれも上手く行かず成果を出せないまま、軍資金がなくなって帰郷する羽目になってしまったのです。

松岡天使が喜三郎を大阪に行かせた真の目的は、おそらく次のエピソードの中に顕れていると思います。

   ☆   ☆   ☆

●易者に未来を予言される
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a191

帰郷する前に大阪に別れを告げるため、北区の天満天神(大阪天満宮)
http://www.tenjinsan.com/
に参拝したところ、境内で営業していた「小林 勇(こばやし いさむ)」という名の易者が、頼んでもいないのに喜三郎を占い出しました。そして
「大阪で神様の教えを宣伝するのは未だ時機が早い。一時も早く丹波に帰りなさい。そして十年ばかり修業を積んでから大阪で宣教すればきっと成功する」
と熱心に告げました。

そして易者は
「これから丹波に帰って十年間の艱難辛苦が訪れるが、これも神様のため、世の中のためだから辛抱しなさい」
と言います。

この易者の言葉を聞いて、喜三郎は高熊山修業の時に松岡天使から受けた教示(神示)を思い出しました。

『澆季(ぎょうき)末法に傾いた邪神の荒ぶ今の時に当たって、お前は至粋至純なる惟神の大道を研究し、身魂を清め、立派な宣伝使となって世界に向かい、神道のラッパを吹き立て、世界を覚醒せなくてはならぬぞよ。

今において惟神の大道を宣伝し、世界の目を醒ますものが無ければ、今日の社会を維持する事は出来ない。ひいては世界の破滅を招来する事は鏡にかけて見るようだ。

お前はこれから神の僕(しもべ)となって、暗黒世界の光となり、冷酷な社会の温味(ぬくみ)となり、腐りきった身魂を救い清める塩となり、身魂の病を癒やす薬ともなり(略)

この大任を完成せんとするは、なかなか容易な事業ではない。今後十年の間はその方は研究の時期である。その間に起こる所の艱難辛苦は非常なものだ。これを忍耐せなくては汝の使命を果たす事は出来ないぞ。

しばしば神の試しにも遭い、邪神の群に包囲され苦しむ事もあるであろう。
前途に当たって深い谷もあり、剣の山や、血の池地獄や、蛇の室(むろ)、蜂の室、暴風怒濤に苦しみ、一命の危うい事もしばしばあるであろう。(略)

さりながら少しも恐るるには及ばぬ。神様を力に誠を杖に猛進せよ。
いかなる災害に遭うとも決して退却してはならぬ。
何事もみな神の御経綸だと思え。
一時の失敗や艱難に出会うたために、神の道に遠ざかり心を変じてはならぬ。
五六七の神の御心を、生命の続く限り遵奉し、かつ世界へ拡充せよ。
神々は汝の身を照らし、汝の身辺に附き添うて、この使命を果たすべく守り玉うであろう。特に十年間は最も必要な修業時代だ』

http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a247

この松岡天使から受けた教示と同じようなことを、大阪で易者から言われたのです。
喜三郎は思わず俯いて落涙しました。ふと顔を上げると、不思議なことに易者の姿は消え去り影も形もありません。
きっと彼は神の使者だったのでしょう。

松岡天使の教示は喜三郎の脳裏に深く刻まれていましたが、再度、易者に言われたことで、強く印象づけられたはずです。

高熊山修業からまだ二ヶ月ほどしか経っていませんが、これから大きな苦難に立ち向かわねばならないことを思い知らせ、それに挑むことを固く決意させるために、松岡天使は喜三郎を大阪に行かせたのではないかと思います。

「十年間」とありますが、実際にそれから十年間は役員信者に迫害されたり、京都で神主になる勉強をしたり、また教派神道の教会長をやったりして、修業・研鑽の時代でした。

十年後の明治41年(1908年)に「大日本修斎会」を設立し、初めて機関誌を出版し、大々的な宣教活動が始まるのです。

大阪で易者から言われたこの時、まだ喜三郎は(明治4年7月生まれとして)満年齢で26歳です。
エネルギーに満ち溢れている20~30歳代に、やりたいこともやれず、悶々とした毎日を送るというのは、とてもつらいことだったと思います。

30代の後半から、ようやくやりたいことがやれるようになって来たのです。
しかし大正10年(1921年)まではまだまだ仮の姿でして、あまりパッとしません。
王仁三郎がその正体を顕し、真価を発揮するのは大正10年の大本事件以降のことです。
年齢だと、50歳以降です。

私も振り返ってみると、ちょうどそのくらい年代(20代後半~30代前半)に、何をしたらいいのか分からず、出口の見えない真っ暗なトンネルの中を歩くような、悶々とした時期が十年間ありました。
あの時期は本当に苦しかったです。
平成15年(2003年)35歳の時に、霊界物語の電子化を開始して、ようやく少しずつ人生に光が見え始めたのです。
王仁三郎の人生に私の人生を重ね合わせるような畏れ多いことをする気はありませんが、私も今はもう50歳を超えています。
これから私も真価を発揮して五六七神政の御用に奉仕できるようになればと思います。

(続く)


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喜三郎の修業 (10) 本田親徳と長沢雄楯

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月14日

自宅で宗教活動を開始した喜三郎の周辺に、妨害行動をする人たちが現れたことを前回書きました。

妨害する人は、弟の由松(よしまつ)のように、身内にもいました。

弟だけでなく、伯母(喜三郎の母・上田ヨネの姉)さんも
「よいかげんに目を醒まして、早く帰って、元の乳屋や百姓をしなさい。お前がヒョロヒョロしているとおヨネがどんだけ心配するか知れぬ」
と喜三郎の宗教活動を否定して叱りつけました。〔第37巻第12章「邪神憑」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3712#a080

「預言者、郷里に容れられず」という聖書の言葉があります。
http://kotowaza-allguide.com/yo/yogensyakyouri.html
家族・親戚・友人など、近くにいる親しい人ほど偉大な人物の大きさが判らないものです。
ついこの前まで俗っぽい生活をしていた人間が突然「神が…」なんて言い出しても、誰もまともに相手にしないことでしょう。

これは王仁三郎のような教祖様でなく、ふつうの信者でも同様です。
新たに信仰した宗教を近親者に理解してもらうのは大変難しいことです。

宗教をポップにしたスピリチュアルという分野でも同じことです。
家族にスピを理解してもらえず浮いてしまう人は大勢います。

だからと言って、『理解のない人たちだなぁ』とか『生きづらい社会だなぁ』と、周りの人を恨んだり世間に背を向けたりすることは間違いです。
そのような社会に光を与えることが、信仰者としての重要な役割です。
神を信じて、強く生きねばなりません。

さて、ここまで自己流で幽斎修業(鎮魂帰神術)を行って来た喜三郎ですが、霊学を本格的に学ぶ機会が訪れました。
静岡在住の神道家・霊学者の長沢雄楯(ながさわ かつたて)の配下の者が、喜三郎の家を訪れたのです。

それは明治31年(1898年)4月3日のことです。
3月1日(旧2月9日)から一週間、高熊山に籠もり、下山してさらに一週間、自宅で霊的な修業をさせられて、それから幽斎修業を開始して二週間ほど経っていました。

長沢が主宰する稲荷講社の中堅幹部の三矢という男が、穴太の喜三郎の自宅に現れて、一緒に静岡に行くことになりました。〔第37巻第20章「仁志東」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3720

第37巻の章の順番だと、大阪宣教(第13~14章)よりも後ろ(第20章)に静岡行きのエピソードが載っていますが、時間順だと、静岡行きが先です。

細かい話ですが、初めて静岡に行った日は、文献によって日付が異なっており、霊界物語では4月13日に静岡に行き、長沢の門下生となり、一週間ほど滞在して霊学を学び、22日に帰郷したことになっています。
しかし『神霊界』掲載の随筆では4月15日に、
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195502c110708
「本教創世記」では4月28日に静岡に行ったと記されています。
滞在期間は三日間です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c16
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c17
いずれも王仁三郎が書いたものですが、文献によって異なるということは、本人もよく覚えていなかったのかも知れません。

さて、喜三郎と長沢雄楯との関わり(第20章)で覚えておきたいことをいくつかリストアップしておきます。

   ☆   ☆   ☆

●長沢雄楯は清水(現・静岡市清水区)の「月見里(やまなし)笠森稲荷神社」で神主をしていた。

地図 https://goo.gl/maps/fCqHaLZ8XDA2

「月見里(やまなし)いうのはずいぶん変わった名前ですが、月が見える里には山が無い(山が無いから良いお月見が出来る)ということから生まれた地名らしいです。
当て字ですが、発想がすごいですね。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9C%88%E8%A6%8B%E9%87%8C

また長沢は、三保の松原で有名な御穂神社の神官も務めていたようです。

●長沢雄楯の師匠は本田親徳(ほんだ ちかあつ)

本田は古神道家です。喜三郎が長沢宅を訪問したときにはすでに本田は故人となっていました。(明治22年に帰幽)

●実は喜三郎は本田と子供の時に遭遇していた

本田親徳は帰幽する前の年、明治21年の春、喜三郎が数えで18歳の時に、梨の木峠(京都市と亀岡市の境目の大江山中)で遭遇しています。
そして喜三郎に「十年後にまた会う日が来るだろう」と告げました。
不思議な出会いです。
また出口直とも八木で出会っていたというので驚きです。

オニペディア「長沢雄楯」
https://onipedia.info/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E8%A6%AA%E5%BE%B3

『大本七十年史』上巻
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1434

●本田は清水に喜三郎がやって来ることを予言していた

喜三郎が本田と邂逅したのとちょうど同じ時期(明治21年春)に、長沢の母・豊子は、本田から
「十年後に丹波からある男が来る。その男が来ると神の道が開ける。その男に渡せ」
と言われて、鎮魂の玉や天然笛を預かりました。

そして十年後に、喜三郎が丹波から現れたのです。

喜三郎は豊子から話を聞き、それが十年前に梨の木峠で出会った老人だったことを覚りました。

●三大学則は本田の神霊が授けた

本田親徳が帰幽した後、その神霊が喜三郎に「三大学則」を授けています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=Z9022

その神霊は「異霊彦命(ことたまひこのみこと)(異霊比古命)」と名乗っていたのですが、最初は喜三郎はそれが本田の神霊だとは知りませんでした。

長沢から受け取った本田の著書に三大学則と同じことが書いてあったので喜三郎は驚いたのです。
そして長沢に本田の神名を尋ねると、長沢は「異霊彦命」だと教えました。
三大学則を授けてくれた神霊は本田親徳だったのです。

「無上の歓楽と希望に充たされ、天にも登る心持ちがするのであった」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c17
と本教創世記に書いてありますが、神の水も漏らさぬ仕組を実感して、そういう心境になったのでしょう。

予言通り十年後に、本田の神霊と再会して神教を授かり、そして鎮魂の玉や天然笛、著書を授かるという形で、十年前に出会った老人(本田)と再会したのでした。

その神秘の感動はとうてい口に言い表せないものだったと思います。

●第1巻第13章「天使の来迎」に登場する「二人の夫婦の神様」は長沢親子

http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0113#a065
この霊界のシーンで夫婦の神様は、喜三郎に天然笛と鎮魂の玉を授けています。
場所も「三穂(御穂)神社だと思はれる所」なので、現界においては豊子と長沢雄楯に相応するのでしょう。
ただし現界では夫婦ではなく母と息子です。

第7巻第8章「羽衣の松」には男女の二神が登場し、「三保の松原」で日の出神に、歌で神示を(邪神が常世国に現れて天教山を襲いに来る準備をしているから言向け和しに行けという神示)を伝えます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0708

この二柱の神は沫那岐(あわなぎ)と沫那美(あわなみ)(三保津彦と三保津姫の分霊)と言いますが、長沢親子の神霊
ということになるのでしょうか。

   ☆   ☆   ☆

さて、喜三郎は数日間、長沢の元で鎮魂帰神術の修業をし、帰郷します。

このとき修めた鎮魂帰神術は、大正9年で止めてしまったので(「喜三郎の修業 (6) 幽斎」を参照)、現在は大本に伝わっていませんが、元を辿れば本田親徳の流れであるのです。

本田親徳の弟子は長沢雄楯以外にもおり、また長沢雄楯の弟子も王仁三郎以外にいるでしょうから、そちらの方には鎮魂帰神術が伝わっていると思いますが、現在はどのような活動をしているのか不明です。

文献としては八幡書店から『本田親徳全集』や『本田親徳研究』が出版されています。
http://www.hachiman.com/shopdetail/000000000185/
http://hachiman.com/shopdetail/000000000184/

もちろん文献だけで鎮魂帰神術が使えるようになるわけではないし、今の時代に鎮魂帰神術が必要だとも思いませんが、誰かが研究しなくてはいけませんので、興味のある方はぜひどうぞ。

帰郷した後、神示によって大阪宣教に行き、その後、やはり神示によって西北へ向かい、八木(やぎ)という町で福島久子(出口ナオの三女)と出会います。

第20章には、静岡行きのエピソードの後に、「西北を指して行け」という神示が下り、次の第21章で、八木で福島久子と出会ったという流れで書いてありますが、実際には静岡と八木の間に大阪宣教(第13~14章)が入ります。
時間順に書いてありませんので頭が少々混乱します。

(注・先ほど書いたように文献により相違があり、ひょっとしたら大阪宣教の後、静岡に行ったのかも知れません)

ということで、次回は大阪宣教のエピソードです。

(続く)


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