作成者別アーカイブ: 飯塚弘明

喜三郎の修業 (12) 女性関係

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月22日

話は少し戻り、喜三郎が宣教のため大阪に到着した直後の場面です。

喜三郎が大阪という見知らぬ地で最初に頼ろうとしたのは、お国サンでした。お国サンは幽斎修業者の一人・多田琴(ただ こと)の母親です。

夫(多田亀)と離婚し、大阪に住んでいたお国サンの家に、多田琴が布教がてら滞在していたので、喜三郎はそこに行って多田琴と二人で大阪で大宣伝を試みようと考えました。

しかし、お国サンの名字も住所も知らなかったので、交番で尋ねても家がどこか分かりません。
穴太の田舎の感覚で、「お国サン」と名前だけ言えば誰だか分かると思っていたようです。

そこでふと思い出したのが、穴太の自宅の隣りに住んでいた斎藤佐市という人が、大阪の空心町(くうしんまち)というところで餅屋を開いているということでした。
このことは前回書きました。
喜三郎は斎藤佐一宅に行こうとして人力車に乗ったら、料金をボッたくられてしまい、斎藤佐市と会うことは出来ましたが、家が狭いので近くの旅館に案内され、そして二週間後、有り金を巻き上げられてしまったのです。〔以上、第13章「煙の都」〕

空心町は今は地名は残っていませんが、現在の大阪市北区天満一丁目~三丁目の辺りです。造幣局がある地域ですね。
https://onipedia.info/wiki/%E7%A9%BA%E5%BF%83%E7%94%BA

お金が無くなった喜三郎は帰郷する前に、もう一度、空心町の斎藤佐市宅を訪れました。〔ここからは第37巻第14章「夜の山路」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714

するとそこに、佐市の娘の一人「いの」(おいの)が来ていました。

いのは実は喜三郎の元カノです。4年前に別れた恋人です。
すると母親が気を利かして、狭い家だけど泊まって帰れというので、妹の富野と5人で四畳半に雑魚寝することになりました。

しかし夜10時頃、姉の「お秋」が人力車でやって来て、いのを連れて帰ってしまいました。
この出来事は霊界物語(第37巻第14章「夜の山路」)を読んでいるだけでは、舌足らずでちょっと意味がよく分かりません。
出口和明著『大地の母』を読むとよく分かります。
もちろん『大地の母』は小説ですので推理・創作の部分もありますが、意味は通じます。

いのに関するエピソードは第2巻の次のところに出て来ます。
○穴太精乳館、百日養子、煙の都 (みいづ舎版 第2巻p64~137、p353)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c03
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10

大地の母で「わき」と書いてあるのが、霊界物語の「お秋」のことだと思います。(「あき」が「わき」に転訛した?)
いのは大阪に嫁いだ姉(わき)の家に同居しており、たまたま空心町の両親の家に会いに来ていたのだろう…と大地の母では推測しています。

大地の母は、霊界物語第37~38巻や本教創世記など、王仁三郎が書いた自叙をベースに、あちこち取材・調査した書いた、王仁三郎の前半生を描いた歴史小説ですが、霊界物語とよく読み較べてみると、ところどころに食い違いが見られます。

たとえば、いのの妹・富野(とみの)の年齢は、霊界物語では16~7歳と書いてありますが、
「十六七の富野といふ妹が」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714&mky=a009#a009
しかし大地の母では20歳と書いてあります。「二十歳の富野が」(みいづ舎版 第2巻p384)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10&mky=a1050#a1050

また、喜三郎がいのと別れたのは、霊界物語では4年前と書いてありますが、
「四年以前に一寸悶錯を起して別れた娘」
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714&mky=a006#a006
大地の母では2年前と書いてあります。「二年前喜三郎との仲を裂かれて、いのは大阪に去った」(みいづ舎版 第2巻p377)
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10&mky=a0812#a0812

どちらかが間違いなのだと思いますが…たぶん霊界物語の方が間違っているのではないかと思います。
王仁三郎本人が書いているのに間違いがあるのか、と思う人もいるでしょうが、そうです、間違いと思われる箇所がけっこうあちこちにあるのです。前々回の記事(喜三郎の修業 (10) 本田親徳と長沢雄楯)で、喜三郎が初めて静岡の長沢雄楯の元を訪ねた日付が、王仁三郎本人が書いた3種の資料で異なっているということを指摘しましたが、日記に書き留めておいたわけでもなく、記憶に頼って書くのであれば、数字的なことはあやふやになってしまっても仕方がないと思います。
大地の母は著者(出口和明)が戸籍やお寺の過去帳など、色々な資料を調べて書いているので、こういう数字的なことはおそらく大地の母の記述の方が正確なのではないかと思います。しかし良く分からないので数字的なことはあまり深く追求しないで下さい。(^_^;)

さて、数年前に斎藤いのと恋愛に落ちた喜三郎は、明治29年(1896年)春、つまり高熊山修業の2年前、いのと結婚したいと父・上田吉松に告白しています。

しかし父は反対しました。
回顧歌の「相聞」には、うちは農家だから色白くて、か弱い女は嫁に取らぬと言って父が反対した、と歌われています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c55

その春、いのは大阪へ引っ越してしまい、そして8月に大阪で結婚することになり、この恋は終わりました。

その元カノと2年後に大阪で再会したのですが、よりを戻したいとか、そういう下心があったわけではありません。
「この時の喜楽は一切の情欲に離れ、ただ信仰一点張りに酔っ払っていた時だから、昔の女に出会い、一間に寝た所で、
別に旧交を温めようとも何ともそんな考えは持っていなかった。しかしながら何となくなつかしいような気がして、その女と同じ家に一宿することを嬉しく思うていたのである」
と書いてあります。〔第14章「夜の山路」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3714&mky=a018-a023

   ☆   ☆   ☆

ところで喜三郎の恋愛関係は、私が知るだけで、8件あります。
恋多き青年だったようです。
丹念に調べればもっとあるかも知れません。
すべて、高熊山修業の前までの恋愛です。
どのくらいまで親しい関係だったのか、王仁三郎本人が詳しく語っているわけではないのでよく分からないのですが、最後の2件は、籍は入れてないものの、事実婚です。

この恋愛体験は主に『出口王仁三郎全集』第8巻の回顧歌に記されています。
しかし固有名詞が書いていないため、相手が誰なのか判然としません。
大地の母では固有名詞を入れて書いてありますので、そちらの情報を含めてリストアップしてみましょう。
年代はおおまかなものです。

◆(1) 明治24年 20歳 初恋の「斎藤蘭」が結婚してしまい、失恋
○出口王仁三郎全集 第8巻 初恋
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c20
○大地の母 第1巻 久兵衛池事件、多情多恨、安閑坊喜楽
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c04 ~06

◆(2) 明治26年 22歳 「八木弁」と恋愛
○出口王仁三郎全集 第8巻 観音堂
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c34
○大地の母 第1巻 安閑坊喜楽、亀山城、園部殖牛社
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c06
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c07
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c08
○大地の母 第2巻 ラムネの泡
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c02&mky=a0666#a0666

◆(3) 「お仙」
○出口王仁三郎全集 第8巻 毛布、晩秋
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c38
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c39
○大地の母 第2巻 安閑坊喜楽
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c06
○大地の母 第3巻 色ぼけ欲ぼけ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138903c03

◆(4) お松後家の一人娘「お鈴」との恋(自然消滅)
○出口王仁三郎全集 第8巻 靴音
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c40
○大地の母 第1巻 愛おとめ
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138901c09

◆(5) 明治28年 24歳 「安達志津江」と恋愛するが、結婚してしまい破局
○出口王仁三郎全集 第8巻 相思、留守、逆耳、血潮、夢現
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c58 ~62
○大地の母 第2巻 ラムネの泡、百日養子
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c02#a0427
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04

◆(6) 明治29年 25歳 隣家の娘で幼なじみの「斎藤いの」と恋愛するが、結婚してしまい破局
○出口王仁三郎全集 第8巻 相聞、紅筆
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c55 ~56
○大地の母 第2巻 穴太精乳館、百日養子、煙の都
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c03#a0289
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04#a0110
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c10#a0803

◆(7) 明治30年 26歳 「斎藤しげの」と結婚し斎藤家の婿養子となるが、義父とケンカして百日で出て行く(入籍はしていない)
○出口王仁三郎全集 第8巻 養子、百日
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c63 ~64
○大地の母 第2巻 百日養子
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04#a0584

◆(8) 明治30年 26歳 「多田琴」と内縁関係になるがしばらくして別れる
○出口王仁三郎全集 第8巻 髪梳
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121808c72
○大地の母 第2巻 百日養子
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04#a0998

というわけで、喜三郎は明治33年(1900年)に出口澄子と結婚する以前に2度、事実婚をしていました。

この最後の「多田琴」という名前に聞き覚えがあると思います。
冒頭に記しましたが、幽斎修業者の一人です。

最初に口切り(霊が懸かってしゃべり出すこと)をした女性です。〔第37巻第7章「五万円」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3707

霊界物語には、単に「多田亀という老侠客の娘」としか書いていないのですが、実は喜三郎の元カノだったのです。
いちおう、「ある機会から妙な仲となっておった」とは書いてますが、
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3702&mky=a212-a214#a212
まさか内縁の妻だったとは、霊界物語を読むだけでは分かりません。

霊界物語執筆当時はすでに澄子さんと結婚していたので、配慮して、その辺りはわざとボカして書いたのかも知れません。

ところで、この女性たちと破局に至った原因は、いずれも相手とケンカしたのではなく、仕方なく別れることになったようです。
昔の結婚は、家と家との結婚という側面が強かったですから、相思相愛でも結婚できるとは限らなかったのです。
貧乏だからとか、親に気に入られなかったとか、そういうことで別れざるを得なかったようです。

喜三郎は大阪で斎藤いのの親の家に泊まりましたが、元カノの親の家に泊まるなんて、ケンカ別れだったら絶対できませんよね。

ケンカ別れではないので、彼女たちとの関係はその後も良好だったようです。
大地の母には斎藤しげのに関して、次のように書いてあります。

 喜三郎と恋愛したすべての女性がそうであるように、彼女もまた、晩年になっても、喜三郎の日常を知る人に会えば、必ず「喜三やん、どうしとってえ。元気にしとってけ」と、さも懐かしげに様子を知りたがったという。
〔大地の母 第2巻 百日養子〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B138902c04&mky=a0933-a0940#a0933

元カノにそんなふうに思ってもらえるなんて、王仁三郎の人徳ですね。
ケンカ別れだったら、そんなふうにはなりませんもんね。
「思い出したくもないッ」というかんじじゃないですか?

王仁三郎は元カノへの対応を次のように語っています。

 五倫五常の道の廃れた支那でさえも、敬老尊師の道は残っている。いわんや君子国たる日本においておやだ。しかるに、この美風が衰えきってしまっているのは実に歎(なげ)かわしい次第である。
 他人でありながら、親にもまして自分を教育して下さるのは先生だから、師はどこまでも大切にせねばならぬ。忠信孝悌の道が廃れてどうして人間の道が立つものか、立替立直しが出来るものか。
 王仁(わたし)は残されたる唯一の恩師・長沢(雄楯)先生を親よりも大切に思っている。先生もお年を召していらっしゃるから、御達者な間に天恩郷や綾部の状況もお目にかけたし、嵐山の花も御案内したい。近々王仁自身でお迎えに行くつもりである。
 王仁は恋人に対しても同様な考えをもっている。次から次へと移ってゆく友愛結婚なんかとは反対に、若い時一度でも交渉のあった女(ひと)は永久に忘れぬ。その女が死んだらその子供のために尽してやる。王仁の命のある間は墓参りもしてやる。それが本当の人情ではないか。
 この点、頭山(満)翁も同意見で、馴染んだ女の墓参りを今もすると話しておられた。
〔玉鏡「敬老尊師」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg478

王仁三郎は実に人情の深い人ですね。
私もこういう人間に(なかなかなれませんが)なれるように努力したいものです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月30日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (11) 易者の予言

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月20日

喜三郎(霊界物語の中では「喜楽」)は松岡天使の命令により、一人で大阪へ出向き、宣教することになりました。具体的な月日は不明ですが、明治31年(1898年)の旧3月のことです。

およそ2週間の大阪滞在中に体験した色々なエピソードが第37巻の第13~14章に書いてあります。

   ☆   ☆   ☆

●人力車に乗ったらぼったくられた
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a025

大阪で喜三郎は人力車に乗り、車夫に「空心町(くうしんまち)の斎藤佐一という餅屋」へ行ってくれと行き先を告げました。
斎藤佐一は穴太の喜三郎の自宅の隣りに住んでいた人で、今は大阪で餅屋を出していたのです。そこを訪ねようと思い、地理がよく分からないため人力車に乗ったのです。
しかし人力車は町中を一回りした挙げ句、乗った場所の近くで喜三郎を降ろして、料金を請求しました。
目的地は乗った場所の近くだったんですが、喜三郎が田舎者で大阪の地理に疎いと見てとった車夫は、遠回りして高い料金を請求したのでした。

今でもよその国では、外人旅行客を相手にぼったくるタクシードライバーがいるようですが、日本にも昔はいたのです。

●旅館に有り金のほとんどを巻き上げられた
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a105

喜三郎は同郷の斎藤佐一の餅屋に寄った後、斎藤に紹介された旅館に入りました。
この「玉屋」という旅館に二週間ほど滞在しながら、宣教のため町に出かけていたのですが、番頭が「お金を盗まれると大変だから私が預かる」と言うので持っているお金を預けました。

喜三郎は旅費として50円を調達して大阪に来ました。
そのうちの40円を番頭に預けたのです。
すると二週間後に、預けていた40円のうち39円20銭を宿泊料として請求されました。
一泊2円80銭になる計算ですが、以前に田舎で泊まった時は一泊25銭だったので、高額な請求に驚きました。

仮に現代のビジネスホテルに置き換えると、地方だと一泊素泊まりで4000円くらいでしょうか。2円80銭だと、現代なら一泊4万5千円くらいの高級ホテルのような感覚だと思います。
喜三郎が田舎者で無智だと思い、番頭は大金を請求したのでした。

しかもこのお金は家屋敷を抵当に入れて借りたお金でした。
それを巻き上げられてしまったのです。
滞在費用が無くなってしまい、喜三郎は大阪を離れて帰郷する羽目になりました。

   ☆   ☆   ☆

この2つのエピソードは、特に宗教に関係があるわけではありませんが、田舎しか知らない喜三郎にとって、人間の欲望が渦巻く都会の恐ろしさを知る良い体験だったに違いありません。
郷里の穴太でも、荒んだ人々に色々と圧迫を受けて来たわけですが、「世界を救う」という使命を持っている以上は、もっと酷い世界の実情を知る必要があります。
その第一歩となる修業だったと思います。

しかし松岡天使はそんな体験をさせるためだけに、わざわざ大阪に行かせたわけではありません。
神の教えを宣伝するために行かせたのです。
しかしそれも上手く行かず成果を出せないまま、軍資金がなくなって帰郷する羽目になってしまったのです。

松岡天使が喜三郎を大阪に行かせた真の目的は、おそらく次のエピソードの中に顕れていると思います。

   ☆   ☆   ☆

●易者に未来を予言される
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a191

帰郷する前に大阪に別れを告げるため、北区の天満天神(大阪天満宮)
http://www.tenjinsan.com/
に参拝したところ、境内で営業していた「小林 勇(こばやし いさむ)」という名の易者が、頼んでもいないのに喜三郎を占い出しました。そして
「大阪で神様の教えを宣伝するのは未だ時機が早い。一時も早く丹波に帰りなさい。そして十年ばかり修業を積んでから大阪で宣教すればきっと成功する」
と熱心に告げました。

そして易者は
「これから丹波に帰って十年間の艱難辛苦が訪れるが、これも神様のため、世の中のためだから辛抱しなさい」
と言います。

この易者の言葉を聞いて、喜三郎は高熊山修業の時に松岡天使から受けた教示(神示)を思い出しました。

『澆季(ぎょうき)末法に傾いた邪神の荒ぶ今の時に当たって、お前は至粋至純なる惟神の大道を研究し、身魂を清め、立派な宣伝使となって世界に向かい、神道のラッパを吹き立て、世界を覚醒せなくてはならぬぞよ。

今において惟神の大道を宣伝し、世界の目を醒ますものが無ければ、今日の社会を維持する事は出来ない。ひいては世界の破滅を招来する事は鏡にかけて見るようだ。

お前はこれから神の僕(しもべ)となって、暗黒世界の光となり、冷酷な社会の温味(ぬくみ)となり、腐りきった身魂を救い清める塩となり、身魂の病を癒やす薬ともなり(略)

この大任を完成せんとするは、なかなか容易な事業ではない。今後十年の間はその方は研究の時期である。その間に起こる所の艱難辛苦は非常なものだ。これを忍耐せなくては汝の使命を果たす事は出来ないぞ。

しばしば神の試しにも遭い、邪神の群に包囲され苦しむ事もあるであろう。
前途に当たって深い谷もあり、剣の山や、血の池地獄や、蛇の室(むろ)、蜂の室、暴風怒濤に苦しみ、一命の危うい事もしばしばあるであろう。(略)

さりながら少しも恐るるには及ばぬ。神様を力に誠を杖に猛進せよ。
いかなる災害に遭うとも決して退却してはならぬ。
何事もみな神の御経綸だと思え。
一時の失敗や艱難に出会うたために、神の道に遠ざかり心を変じてはならぬ。
五六七の神の御心を、生命の続く限り遵奉し、かつ世界へ拡充せよ。
神々は汝の身を照らし、汝の身辺に附き添うて、この使命を果たすべく守り玉うであろう。特に十年間は最も必要な修業時代だ』

http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3713#a247

この松岡天使から受けた教示と同じようなことを、大阪で易者から言われたのです。
喜三郎は思わず俯いて落涙しました。ふと顔を上げると、不思議なことに易者の姿は消え去り影も形もありません。
きっと彼は神の使者だったのでしょう。

松岡天使の教示は喜三郎の脳裏に深く刻まれていましたが、再度、易者に言われたことで、強く印象づけられたはずです。

高熊山修業からまだ二ヶ月ほどしか経っていませんが、これから大きな苦難に立ち向かわねばならないことを思い知らせ、それに挑むことを固く決意させるために、松岡天使は喜三郎を大阪に行かせたのではないかと思います。

「十年間」とありますが、実際にそれから十年間は役員信者に迫害されたり、京都で神主になる勉強をしたり、また教派神道の教会長をやったりして、修業・研鑽の時代でした。

十年後の明治41年(1908年)に「大日本修斎会」を設立し、初めて機関誌を出版し、大々的な宣教活動が始まるのです。

大阪で易者から言われたこの時、まだ喜三郎は(明治4年7月生まれとして)満年齢で26歳です。
エネルギーに満ち溢れている20~30歳代に、やりたいこともやれず、悶々とした毎日を送るというのは、とてもつらいことだったと思います。

30代の後半から、ようやくやりたいことがやれるようになって来たのです。
しかし大正10年(1921年)まではまだまだ仮の姿でして、あまりパッとしません。
王仁三郎がその正体を顕し、真価を発揮するのは大正10年の大本事件以降のことです。
年齢だと、50歳以降です。

私も振り返ってみると、ちょうどそのくらい年代(20代後半~30代前半)に、何をしたらいいのか分からず、出口の見えない真っ暗なトンネルの中を歩くような、悶々とした時期が十年間ありました。
あの時期は本当に苦しかったです。
平成15年(2003年)35歳の時に、霊界物語の電子化を開始して、ようやく少しずつ人生に光が見え始めたのです。
王仁三郎の人生に私の人生を重ね合わせるような畏れ多いことをする気はありませんが、私も今はもう50歳を超えています。
これから私も真価を発揮して五六七神政の御用に奉仕できるようになればと思います。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月26日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (10) 本田親徳と長沢雄楯

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月14日

自宅で宗教活動を開始した喜三郎の周辺に、妨害行動をする人たちが現れたことを前回書きました。

妨害する人は、弟の由松(よしまつ)のように、身内にもいました。

弟だけでなく、伯母(喜三郎の母・上田ヨネの姉)さんも
「よいかげんに目を醒まして、早く帰って、元の乳屋や百姓をしなさい。お前がヒョロヒョロしているとおヨネがどんだけ心配するか知れぬ」
と喜三郎の宗教活動を否定して叱りつけました。〔第37巻第12章「邪神憑」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3712#a080

「預言者、郷里に容れられず」という聖書の言葉があります。
http://kotowaza-allguide.com/yo/yogensyakyouri.html
家族・親戚・友人など、近くにいる親しい人ほど偉大な人物の大きさが判らないものです。
ついこの前まで俗っぽい生活をしていた人間が突然「神が…」なんて言い出しても、誰もまともに相手にしないことでしょう。

これは王仁三郎のような教祖様でなく、ふつうの信者でも同様です。
新たに信仰した宗教を近親者に理解してもらうのは大変難しいことです。

宗教をポップにしたスピリチュアルという分野でも同じことです。
家族にスピを理解してもらえず浮いてしまう人は大勢います。

だからと言って、『理解のない人たちだなぁ』とか『生きづらい社会だなぁ』と、周りの人を恨んだり世間に背を向けたりすることは間違いです。
そのような社会に光を与えることが、信仰者としての重要な役割です。
神を信じて、強く生きねばなりません。

さて、ここまで自己流で幽斎修業(鎮魂帰神術)を行って来た喜三郎ですが、霊学を本格的に学ぶ機会が訪れました。
静岡在住の神道家・霊学者の長沢雄楯(ながさわ かつたて)の配下の者が、喜三郎の家を訪れたのです。

それは明治31年(1898年)4月3日のことです。
3月1日(旧2月9日)から一週間、高熊山に籠もり、下山してさらに一週間、自宅で霊的な修業をさせられて、それから幽斎修業を開始して二週間ほど経っていました。

長沢が主宰する稲荷講社の中堅幹部の三矢という男が、穴太の喜三郎の自宅に現れて、一緒に静岡に行くことになりました。〔第37巻第20章「仁志東」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3720

第37巻の章の順番だと、大阪宣教(第13~14章)よりも後ろ(第20章)に静岡行きのエピソードが載っていますが、時間順だと、静岡行きが先です。

細かい話ですが、初めて静岡に行った日は、文献によって日付が異なっており、霊界物語では4月13日に静岡に行き、長沢の門下生となり、一週間ほど滞在して霊学を学び、22日に帰郷したことになっています。
しかし『神霊界』掲載の随筆では4月15日に、
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195502c110708
「本教創世記」では4月28日に静岡に行ったと記されています。
滞在期間は三日間です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c16
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c17
いずれも王仁三郎が書いたものですが、文献によって異なるということは、本人もよく覚えていなかったのかも知れません。

さて、喜三郎と長沢雄楯との関わり(第20章)で覚えておきたいことをいくつかリストアップしておきます。

   ☆   ☆   ☆

●長沢雄楯は清水(現・静岡市清水区)の「月見里(やまなし)笠森稲荷神社」で神主をしていた。

地図 https://goo.gl/maps/fCqHaLZ8XDA2

「月見里(やまなし)いうのはずいぶん変わった名前ですが、月が見える里には山が無い(山が無いから良いお月見が出来る)ということから生まれた地名らしいです。
当て字ですが、発想がすごいですね。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E6%9C%88%E8%A6%8B%E9%87%8C

また長沢は、三保の松原で有名な御穂神社の神官も務めていたようです。

●長沢雄楯の師匠は本田親徳(ほんだ ちかあつ)

本田は古神道家です。喜三郎が長沢宅を訪問したときにはすでに本田は故人となっていました。(明治22年に帰幽)

●実は喜三郎は本田と子供の時に遭遇していた

本田親徳は帰幽する前の年、明治21年の春、喜三郎が数えで18歳の時に、梨の木峠(京都市と亀岡市の境目の大江山中)で遭遇しています。
そして喜三郎に「十年後にまた会う日が来るだろう」と告げました。
不思議な出会いです。
また出口直とも八木で出会っていたというので驚きです。

オニペディア「長沢雄楯」
https://onipedia.info/wiki/%E6%9C%AC%E7%94%B0%E8%A6%AA%E5%BE%B3

『大本七十年史』上巻
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c1434

●本田は清水に喜三郎がやって来ることを予言していた

喜三郎が本田と邂逅したのとちょうど同じ時期(明治21年春)に、長沢の母・豊子は、本田から
「十年後に丹波からある男が来る。その男が来ると神の道が開ける。その男に渡せ」
と言われて、鎮魂の玉や天然笛を預かりました。

そして十年後に、喜三郎が丹波から現れたのです。

喜三郎は豊子から話を聞き、それが十年前に梨の木峠で出会った老人だったことを覚りました。

●三大学則は本田の神霊が授けた

本田親徳が帰幽した後、その神霊が喜三郎に「三大学則」を授けています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=Z9022

その神霊は「異霊彦命(ことたまひこのみこと)(異霊比古命)」と名乗っていたのですが、最初は喜三郎はそれが本田の神霊だとは知りませんでした。

長沢から受け取った本田の著書に三大学則と同じことが書いてあったので喜三郎は驚いたのです。
そして長沢に本田の神名を尋ねると、長沢は「異霊彦命」だと教えました。
三大学則を授けてくれた神霊は本田親徳だったのです。

「無上の歓楽と希望に充たされ、天にも登る心持ちがするのであった」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c17
と本教創世記に書いてありますが、神の水も漏らさぬ仕組を実感して、そういう心境になったのでしょう。

予言通り十年後に、本田の神霊と再会して神教を授かり、そして鎮魂の玉や天然笛、著書を授かるという形で、十年前に出会った老人(本田)と再会したのでした。

その神秘の感動はとうてい口に言い表せないものだったと思います。

●第1巻第13章「天使の来迎」に登場する「二人の夫婦の神様」は長沢親子

http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0113#a065
この霊界のシーンで夫婦の神様は、喜三郎に天然笛と鎮魂の玉を授けています。
場所も「三穂(御穂)神社だと思はれる所」なので、現界においては豊子と長沢雄楯に相応するのでしょう。
ただし現界では夫婦ではなく母と息子です。

第7巻第8章「羽衣の松」には男女の二神が登場し、「三保の松原」で日の出神に、歌で神示を(邪神が常世国に現れて天教山を襲いに来る準備をしているから言向け和しに行けという神示)を伝えます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0708

この二柱の神は沫那岐(あわなぎ)と沫那美(あわなみ)(三保津彦と三保津姫の分霊)と言いますが、長沢親子の神霊
ということになるのでしょうか。

   ☆   ☆   ☆

さて、喜三郎は数日間、長沢の元で鎮魂帰神術の修業をし、帰郷します。

このとき修めた鎮魂帰神術は、大正9年で止めてしまったので(「喜三郎の修業 (6) 幽斎」を参照)、現在は大本に伝わっていませんが、元を辿れば本田親徳の流れであるのです。

本田親徳の弟子は長沢雄楯以外にもおり、また長沢雄楯の弟子も王仁三郎以外にいるでしょうから、そちらの方には鎮魂帰神術が伝わっていると思いますが、現在はどのような活動をしているのか不明です。

文献としては八幡書店から『本田親徳全集』や『本田親徳研究』が出版されています。
http://www.hachiman.com/shopdetail/000000000185/
http://hachiman.com/shopdetail/000000000184/

もちろん文献だけで鎮魂帰神術が使えるようになるわけではないし、今の時代に鎮魂帰神術が必要だとも思いませんが、誰かが研究しなくてはいけませんので、興味のある方はぜひどうぞ。

帰郷した後、神示によって大阪宣教に行き、その後、やはり神示によって西北へ向かい、八木(やぎ)という町で福島久子(出口ナオの三女)と出会います。

第20章には、静岡行きのエピソードの後に、「西北を指して行け」という神示が下り、次の第21章で、八木で福島久子と出会ったという流れで書いてありますが、実際には静岡と八木の間に大阪宣教(第13~14章)が入ります。
時間順に書いてありませんので頭が少々混乱します。

(注・先ほど書いたように文献により相違があり、ひょっとしたら大阪宣教の後、静岡に行ったのかも知れません)

ということで、次回は大阪宣教のエピソードです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月23日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック


喜三郎の修業 (9) 邪神の妨害

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月13日

自宅で宗教活動を開始した喜三郎(霊界物語の話中では「喜楽」という雅号で記されています)の元に、病気治しや神占を願いに大勢の人が集まり出しました。食事をする間もないくらいに大忙しの状態です。〔第37巻第11章「松の嵐」〕

それだけでなく、妨害する者もやって来ました。
第11章「松の嵐」から第12章「邪神憑」にかけて、次の5人の妨害エピソードが出て来ます。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3711
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3712

 次郎松(第3~4章の次郎松事件に出て来た50歳代の男)
 牛公(侠客の子分)
 由松(喜三郎の弟)
 叔母
 重吉

喜三郎の霊能力に救いを求めて大勢の人々が集まって来ましたが、次郎松(じろまつ)はその霊能力を疑い、喜三郎がインチキ商売をやっていると勘ぐって、やめさせようとして来たのです。

現代の感覚だと、むしろ次郎松の方が多数派でしょうね。
霊能力の類はみな「インチキ」だと断罪されてしまうのではないでしょうか。

次郎松はインチキを暴いてやると意気込みました。
そして湯飲みの中に何か小さな物を入れ、中に何が入っているか当ててみろ、と喜三郎に詰め寄ります

喜三郎は
「私は神様の教えを伝えたり、悩む人を助けるのが役目だ。手品師のようにそんなことをするのはごめんだ」
と言って断りましたが、次郎松が
「尻尾を出したな。早く改心しろ」
と攻め寄ってうるさいので、仕方なく
「一銭銅貨が15枚入っている」
と中味を当ててやりました。

この手の透視は王仁三郎にとって造作ないことだったようです。
出口京太郎著『巨人 出口王仁三郎』の「序にかえて」に、作家の今東光(こん とうこう)による思い出話として、王仁三郎の透視能力のすごさが書いてあります。疑い深い新聞記者の小銭入れに入っている金額をピタリと当ててビックリさせたというのです。

常識とか固定概念を打ち壊すために、透視や予言、物体移動のような超常現象を見せることはとても有効ですが、しかしそれ(超常現象)自体に囚われてしまう危険があります。

神様の教えを伝えたり、悩み事を解決する、ということが重要なのであって、さらに言えば惟神の道に人々をいざなうことが宣教活動の本質です。
超常現象はそのための道具に過ぎません。
それ自体に囚われてしまうと、ただの興味本位のオカルトになってしまいます。

次郎松は湯飲みの中味を喜三郎がズバリ言い当てたので、霊能力が本物だと知りましたが、しかし
「ハハン、飯綱使い(キツネ使い)だな。そんなキツネをどこで買って来たのだ? ほんのちょっとでいいから見せてくれ」
と、表面的な超常現象に囚われてしまい、本質的なことには目を開きませんでした。

もともと次郎松は救いを求めにやって来たわけではなく、喜三郎と一悶着あって(第3~4章参照)、最初から喜三郎の活動を妨害することが目的なので、霊能力が本物だろうと偽物だろうと関係なかったのです。
その後、次郎松は
「喜楽がキツネを使って妙なことをしているから相手にするな」
と村中言い触らして歩き回りました。

次郎松は神の教えを忌み嫌う悪魔の霊に憑依されて知らず識らずに邪神の走狗(そうく)となってしまったのである。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3711#a145

神の道を伝えようとすると、決まって邪神の妨害に遭います。
それは低次の見方をすると「妨害」ですが、高次な見方をすると神が与えた「試練」となります。身魂磨きの修業の一環です。

喜三郎の活動を妨害するアンチ勢力は他にもどんどん出て来ます。
もっと後ろの方の章では、暗殺されかけたエピソードも出て来ます。
その妨害をどうクリアして乗り越えて行くかが、身魂磨きの旅の醍醐味(?)です。
結局、霊界物語というのは、そういうドラマがたくさん書き綴られているのです。
そういう点で、身魂磨きの旅の物語だと言えるわけです。

妨害勢力は外部だけでなく、内部(身内の人間)にもいます。
喜三郎のすぐ下の弟の由松(よしまつ)です。
牛公のエピソードの後に、由松のエピソードが出て来ます。〔第11章〕

侠客の子分の牛公が、足の怪我を治してくれと言って喜三郎の所に来ました。
牛公もやはり喜三郎を妨害しに来たのです。
本当は怪我をしていないのですが、喜三郎が治そうとしたら
「本当は怪我していないのに、それが分からないとは、こいつの能力はニセモノだ」
と非難し、逆に怪我をしていないことを見破ったのなら、わざと自分の足を刃物で切って
「こんなに血が出ているのに怪我していないとは何事だ。こいつはニセモノだ」
と、いずれにせよ喜三郎を非難攻撃して、金銭をむしり取ろうという魂胆です。

牛公の汚い魂胆を見破った喜三郎は、相手にしないで無視していたら、牛公は怒って暴れ出し、神床(かんどこ。神様を祭っている祭壇)にジャージャーと小便をして帰ってしまいました。

それと入れ違いに農作業から帰って来た由松は、この惨状を見て悔しがりました。
そしてその怒りを牛公に対してではなく、神に対してぶつけたのです。

「全く、この神様は力のない神だ。毎日々々お供え物をしているのに、こんなことされても、何の罰も当てないのか。ああいう奴はフンのばしてしまえばいいのだ。そうすれば牛公や次郎松にバカにされないのだ」(意訳)

そして由松は神床をひっくり返して、お供え物をメチャメチャにしてしまったのです。

「おいアニキ、こんな神を祭って拝んでも何の役にも立たないじゃないか。今日限り、こんなつまらないことはやめてくれ。祭ったために村中に笑い者にされて、こんな神は上田家の敵だ」(意訳)

と愚痴って、喜三郎の活動をやめさせようとします。
そして翌日から次郎松と一緒になって、神様の悪口を言い触らし出しました。

外部だけではなく、身内からもこんな妨害に遭うのですから、神の道を伝えるというのはなかなかつらいことです。

しかしこれは「宗教あるある」で、神に目ざめた人が多かれ少なかれ通る道です。
周りの人がやっていないことをやり出すのですから、浮いてしまうし、出た杭は打たれます。
ですが一歩前に出ないと世の中は良くなりません。

宗教に限らず政治の世界も一緒です。
与野党の権力闘争でいつでもカンカンガクガクですが、誰かが何かをやらなければ世の中は変わりません。
しかし何をやると必ず誰かが足を引っ張ります。

そのアンチ勢力をいかに対応して行くかというところに、その政治家や宗教家の真価が発揮されるのでしょう。

王仁三郎のやり方は、基本的に、アンチを排除するのではなく、含んでしまうやり方です。
アンチを手の平の上の孫悟空にしてしまうのです。

水鏡の「毒と薬」で王仁三郎は次のように説いています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg023

毒にならぬものは薬にもならぬ。
毒もうまく使えばたいした働きをするものである。(略)

「聖師様のそばには悪魔ばかりがついている」と罵るものがあるそうだが、よし悪魔であっても差し支えないではないか。毒になるものは薬になる。(略)

悪魔が一朝大悟、徹底改心すれば、多くの人を救う働きをするものである。
鬼も大蛇(おろち)も救わにゃならぬこの神業に、尻の穴の小さい、毛嫌いばかりしていて、他人を悪魔扱いにする人たちが、信仰団体の中にも沢山あるのは歎かわしい事である。

また悪魔を料理し得る人才が、いかにも少ない事も、歎かわしい事の一つである。
お人の好いばかりが能でもない。

私は本当に骨が折れる。誰か私に代わって鬼も大蛇も料理するという偉才が早く現われないものかなぁ。

このワニ口(わにぐち。王仁三郎自身のこと)は、鬼や大蛇はまだおろか、どんな骨の堅い、腕っぷしの強い獣物(けだもの)でも、噛みこなすだけの強い歯を持っておるつもりだ。

アンチも料理してうまく使ってしまおうというわけです。
そんなワニ口に私もなりたいものです。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月19日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック

喜三郎の修業 (8) 松岡仙人と木花姫命

Published / by 飯塚弘明
投稿:2020年04月08日

前回、喜三郎(霊界物語中では雅号の「喜楽」)が大霜天狗に騙されて牛の糞を掴まされたことを書きました。
この大霜天狗の正体は、実は松岡仙人だったことが第37巻第10章「矢田の滝」で明かされています。
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3710
(次は意訳です)

喜三郎「あなたは大霜だと言っているが、違うでしょ。しゃべり方が松岡さまっぽい」
大霜天狗「松岡でも大霜でも構わんじゃないか。お前の魂さえ研けたらいいのじゃ」「本当は松岡だ。山に金を掘りに行かせたのも、牛の糞を掴ませたのも、みなこの松岡だよ。アハハハハ」

喜三郎に懸かっている松岡仙人は大霜天狗と名乗り、喜三郎から金の執着を無くすために試練を与えていたのでした。

そして今度は、喜三郎に水行させるために穴太から少し離れた「矢田の滝」へ連れて行きます。
その途中に糞壺(田畑に撒く肥料にするための肥溜め)がありました。すると松岡仙人は喜三郎に、真っ裸になってその糞壺に入り、身魂の洗濯をせよと命じたのです。

何とも意地悪な松岡仙人です。
こんなことも修業の一環なのでしょうか? (^_^;)

喜三郎は、こんな臭い所に入れるか、と拒否します。
しかし松岡仙人に「糞より汚い身魂(みたま)を持っていながら、糞が汚いとは何をぬかすのだ!」と大声で叱責されて驚き、仕方なく裸になって糞壺に入ろうとします。

すると今度は松岡仙人は慌ててそれを制止しました。「それさえ分かれば、もうよい。お前の肉体は自分が懸かる機関だから、実際に糞壺に入られたら自分も困る」
ずいぶん自分勝手な松岡仙人ですが──神の命を素直に実行するか、喜三郎を試してみたのです。

この時はまだ喜三郎は、松岡仙人を100%信じていたわけではないので、こんなふうにウソばかり言って何度も自分を失敗させるような奴は邪神ではないかと疑っていました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3710#a120

松岡仙人はもともと、天教山(富士山)の木花姫命(このはなひめのみこと)の使者だけあって、この松岡仙人のキャラクターは霊界物語の木花姫命に似ています。
木花姫命は霊界物語の各所において、三十三相に変化して(つまり色々と姿を変えて)人々の前に現れ、教え導きます。
時にはバカにしたり、脅したり、一見、邪神や邪霊かと思うような態度で現れる場合が多々あるのです。
神話学や心理学で言う「トリックスター」の役割をしています。

善神なのに、悪神的な行為をするのは、何とも不可解なことですが、しかしよく考えてみると、私たちが生きていく上で何らかの「教訓」を得る時というのは、嫌な人と応対したり、悪い出来事が起きたりした時が多いのではないでしょうか?

『これを教訓に心を改めよう』と思うときは、その人にとって何か悪いことが起きたからです。
そういう時、それは木花姫命が導いている可能性があります。
そのことに気がつけば『教えていただきありがとうございます』と感謝の念が自然に湧き起こることでしょう。

さて、松岡仙人は「矢田の滝」に喜三郎を連れて行きました。
それは亀岡のどの辺りにあるのかと言うと、こちらのブログを見て下さい。この亀岡の地図の右端にあります。
http://iizukahiroaki.com/?p=1196

矢田の滝は穴太から南東に直線で3キロほど離れたところにあります。
喜三郎はその矢田の滝で一週間の水行をした後、穴太の自宅で宗教活動を開始しました。〔第37巻第11章「松の嵐」〕
https://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3711

それは主に、霊能力を駆使した病気直しや託宣でした。

(続く)


この記事は『霊界物語スーパーメールマガジン』2017年10月16日号の記事に加筆訂正したものです。(メルマガ登録ページはここをクリック