宣伝使は神様の有り難いことを宣べ伝える使者

投稿:2017年07月11日

王仁三郎は教えの宣教者を「宣伝使(せんでんし)」と名づけました。
「宣伝」という言葉は、現代では主に企業の商品をセールスする際に用いられるので、宗教の「宣伝」というと、何やら商売っ気のあるような感じがして、少々嫌らしく感じるかも知れませんね。

しかし昔は、商業に限らず、主義主張を宣べ伝えることを、広く「宣伝」と呼んでいたようです。
政治の世界では「街頭宣伝」という言葉がありますね。ナチス・ドイツに設けられた「宣伝省」という官庁がありますが、これはナチスの思想を宣伝する役所です。
思想の宣伝は英語だと「propaganda プロパガンダ」、商品の宣伝は「publicity パブリシティ」が使われるようですが、日本語だとどちらも同じ「宣伝」という言葉が使われています。

王仁三郎によると、王仁三郎が「宣伝」という言葉を使い出したので世間一般でも「宣伝」という言葉をしきりに使うようになった…なんて意味のことを言っています。

 この地上一切のいずれの宗教においても、布教師とか宣教師とか、あるいは教師とか云うておりますが、大本が初めて宣伝使とこれを唱えたのであります。霊界においては総てエンゼルと称えられ、また宣伝使といわれておる。それを地上に写して宣伝使と名を附けたのでありますが、この頃は、曰く防火宣伝、曰く交通宣伝、曰く何、曰く何等々盛んに用いられておる。
 大本が尖端を切った後をみな、総てが使うておる。…
〔「時代に生きてはたらけ」『出口王仁三郎著作集 第5巻』〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195305c210

この宣伝使の「し」は、「師」でもなく「士」でもなく「使」です。神の教えを宣べ伝える「使い」です。
また宣「教」使ではなく宣「伝」使です。これについては王仁三郎は次のように述べています。

…なぜ他の宗教のように「教」の字をつけないかというと、それはすべての既成宗教は、みんな人の造った人造教であります。その人造教を開くのでありますから、布教師と云って差し支えない。しかし、この大本は宇宙の大元霊なる幽の幽にましますところの、吾々の目にも見えない、耳にも聞こえない本当に世界唯一の神様の意志を、私と開祖様が伝達司となって表示したものを、そのままに自分の考えを加えず、世の中へ伝えるのでありますから、宣伝使というのであります。もしも、たとえ少しでも自分の意志が入り、自分の勝手が入ったならば、これは宣伝使ではないのであります。
 仏教に諸善諸菩薩(しょぜんしょぼさつ)という言葉がありますが、この菩薩というものはちょうど、大本の宣伝使のようなものであります。しかし釈迦の教えはあの時代の婆羅門教(バラモン教)の、非常に苛酷な階級制度に反抗して起こったところの平等主義の教えであって、いわゆる釈迦その人が、昔からある印度の仏教及び婆羅門教、その他の宗教から脱出して、色々な宗教の粋を集めて一ツの社会主義的仏教を開いたのでありますから、やはりこれは人造教と云ってよいのであります。この人造教を布教宣伝する人を菩薩と唱えておるのであります。
 大本の菩薩はこれとは少し意味が違うのであって、いわゆる菩薩以上のものであります。仏の方では如来(仏)と云っている。仏ということは先覚者、証覚者というような意味であるが、本当の宣伝使なれば、これは如来の働きをするのであります。だから神様そのままの教えをするのが宣伝使であります。そういうふうに宣伝使というのは尊貴な職責でありますから、最も勇気がなければならず、最も人に優れた正しい智慧を走らせ、最も人に優れた光がなければいかず、最も人に優れた所の信がなければいけないので、いわゆる勇親愛智の四魂の働きが、すべての凡俗に超越しておらなかったならば、宣伝使の役は務まらぬ、誰も聞く者がないのであります。それでどうしても宣伝使は、勇親愛智のこの四つの霊魂──これをばどこまでも活用せねばならぬ。
〔「皇道大本は宇宙意志の表現」『出口王仁三郎全集 第2巻』〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B121802c119

なるほど。勝手に教えを作るな、ということですね。

私も20代の前半、まだ王仁三郎と出会う前には、いろいろと教えを作りましたが(笑)、やはり王仁三郎にはかないません。霊界の様子なんて、とうてい私如きには分かりませんから、いろいろと勝手に作るわけです。それはそれで想像力を働かせるので楽しいですが、しょせんは人工物ですね。SF小説と変わりません。神の教えとは、ほど遠いものです。

ところで私は平成21年(2009年)頃から、霊界物語の普及のために、講座をやったり、ブログを書いたりと、いろいろと活動を始めたのですが、その時にさんざん悩みました。
霊界物語を解説するというのは、どうしても我意が入るのです。自分の意見です。そのまま読んでも難解だから、解説する必要があるわけで、初心者にも解りやすく説明しなくては、普及には繋がりません。しかし解りやすく説明するには、どうしても大胆に解釈して行かねばならないので、かなりズレてしまう可能性もあるのです。そうすると、勝手に教えを作ることになりはしないか、神の道を外れることになりはしないか、とあれこれ悩みあぐねました。
これは宗教神経症です。強迫神経症の一種です。宗教の信者というのは多かれ少なかれ、この強迫神経症にさいなまれています。フロイト曰く「宗教は人類全体がかかっている強迫神経症である」。
本来、こういった強迫観念から解放し、人間を自由にするために宗教があるのですが、その宗教が新たな強迫神経症を生みだして行くのですから、なかなか世の中は一筋縄では行きません。

そこで私が取った対策は「霊界物語を直接読んでもらう」ということです。
私がいろいろ何だかんだ言っても、実際のところは霊界物語を直接読んで自分で考えて下さい、ということで、出典をなるべく細かく記載しているのです。
要するに、『霊界物語ネット』で読んでもらうことを担保にして、いろいろ好き勝手なことを言わせてもらってるわけです。

神の道の取次(とりつぎ)としては、人を、自分の話に繋ぐのではなく、神様に繋ぐことが肝要です。
取次というのは、トーハンとか日販とかのことではなくて、人間と神様を取り次ぐ人のことです。「宣伝使」は王仁三郎だけが使っている特殊な専門用語ですが、「取次」はもう少し一般的な用語です。
宣伝使とか布教師とか宗教家とか、霊能者とか占い師とかチャネラーとかスピリチュアル・リーダーみたいな人は、みな取次です。私もいちおう取次です。
この取次としての自覚が足りないと、人を、自分に繋いでしまうのです。自分を権威者とし、自分の話を信じこませ、囲い込む。要するに自分のお客さんにしてしまうのです。本当は神様のお客さんなんですから、神様に繋げなくてはいけないのに、それを自分が横取りしてしまうのです。
重要なのは神様とその人との関係であり、それを繋ぐのが取次です。人々を神様の方に向けるのが仕事です。
私の場合は王仁三郎・霊界物語を通して、それを行っているわけですが、私が好き勝手なことをしゃべっても、人を私のところにとどめるのではなく、王仁三郎・霊界物語へと向かってもらうようにしておけば、それでいいかなと思っています。
もちろん究極的には、王仁三郎・霊界物語からも離れて、直接神様と繋がってもらうようにすべきです。

さて、先ほどの引用文に「菩薩」という言葉が出て来ましたが、菩薩とは、自らの救済、そして人々の救済を目指して修行する人です。
そういう意味では私も菩薩でした。

しかし、人間には、人間を救う資格なんてない、と霊界物語で教えられています。人を救うのは神の業であり、人が人を救うなんて思い上がりもはなはだしい、というわけです。
第46巻で、魔我彦と天使の会話の中に出て来ます。

魔我彦「…吾々は自分の身を救うて、それで決して満足は出来ませぬ。憐れな同胞の身魂(みたま)を救ってやりたいのでございます。宣伝使の必要も吾が身を救うためではございますまい。ここをハッキリと御教示願いたいものでございます」

天使「宣伝使は読んで字の如く、神の有り難きこと、尊きことを体得して、これを世人(よびと)に宣べ伝うる使者である。決して一人なりとも救うべき権利はない。世を救い、人を救うは即ち救世主の神業である。ただ宣伝使たるものは、神の国に至る亡者引(もさひき)である。この亡者引は、ややもすれば眼(まなこ)くらみ、八衢(やちまた)にさまよい、或いは根底(ねそこ)の国に客を導き、自らも落ち行くものである。それゆえ何事も惟神に任すが一等だ。何ほど人間が知識ありとて、力ありとて、木の葉一枚生み出すことも出来ないではないか。一塊(いっかい)の土たりとも産出することの出来ない身を以て、いかでか世人を救う力あらむ。ただ宣伝使及び信者たるものは、神を理解し神の国の方向を知り、迷える亡者をして天国の門に導くことを努むれば、これで人間としての職務は勤まったのだ。それ以上の救いは神の御手(みて)にあることを忘れてはなりませぬ」
〔第46巻第18章「エンゼル」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4618#a240

つまり、
取次の仕事は、神様の有り難いこと、尊いことを人々に伝え、神様の方に導くこと。
それだけやれば十分で、後は神様にお任せしましょう。