人類普遍の宗教とは

投稿:2017年06月27日

(3) 普遍的な宗教原理の探究

前回からの続きです。

王仁三郎が言う「宗教の統一」とは、ある一つ宗教に全人類を改宗させることではありません。どこかの”救世主”に全人類を帰依させるようなことではないのです。
諸宗教に共通する法則なり普遍的な原理なりを見出して、宗教が進むべき大道を共に歩いて行こうということです。
端的に言えば、共通する部分で繋がって行こうということです。

神話や教義や祭礼など、表面だけ見れば宗教は千差万別ですが、しょせんは同じ人間から発生したものであり、人間によって営まれているのですから、共通するものがあるのは当然です。

自分と他人と違う部分を見て『それは違う』『間違っている』『オレが正しい』と互いに非難し合っているのでは、争いが絶えないはずです。
前回書いたように、現代は「自由宗教」が隆盛している時代です。各自が自分のオンリーワンのアイデンティティを探究し確立して行く時代では、自分と他人は「違う」ことが当たり前です。
違う部分を見て批判するのではなく、同じ部分を見て一致・共感して行くことが重要になります。

それが、前々回書いたように新生の大本である「愛善苑」の会則第一条となるのです、。

「天地ノ公道万教ノ根本義ヲ究明」する、つまり宇宙の真理とか諸宗教の根本原理を探究すること──それは人類普遍の宗教を樹立すると言ってもいいでしょう。

では、普遍の宗教とはどのようなものでしょうか。

たとえばそれは「人権」です。

王仁三郎は昭和23年(1948年)1月19日に昇天しましたが、その年の12月10日に国連総会で採択された「世界人権宣言」の第一条を引用してみましょう。

第一条
 すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html

人権宣言というのは一種の法律のようなものですが、実は信仰告白でもあります。「人間は生まれながらにして自由であり、平等であると信じます」という信仰告白なのです。

「生まれながらにして」というのは、社会(国家)が与える、ということではなく、神が与える、ということです。ただし法律なので「神」という言葉を使わずに、人間同士の合意文(契約書)というような形になっているだけです。本来的には人権宣言とは、「神様は人間を自由で平等な存在としてお創りになられた」という信仰告白なのです。「理性と良心とを授けられており」という文言にその名残がありますね。理性や良心は社会(国家)が授けたものではないことは明白です。では誰が授けたの? ──そう、神様です。

人間は「自由」で「平等」で「理性と良心を授けられている」なんていう、科学的な根拠があるのでしょうか?
もちろん、根拠などありません。
これは「そうでありたい」という願望であり、「そのように信じる」という信仰です。

この「人権」という宗教が世界中に広まったのは、それだけ普遍的な宗教だったからです。
要するに、誰もが信じることが出来る宗教だったのです。
人間は生まれつき不自由で不平等だと信じるよりも、みんな自由で平等だと信じた方が、みんながハッピーに生きていけるということを、私たちの魂が知っていたからです。
一部の宗教のように、国家権力と結託して信仰を強要していったわけではありません。

イスラム原理主義や中国共産党などは、このような人権思想を「欧米キリスト教思想の押しつけだ」とか言って忌避する傾向がありますが、それは支配者の利己的な都合でしょう。人はみな自由で平等ということになったら、支配者は既得利権を奪われますから都合が悪いです。

私は、先に示した人権宣言第一条が完全なものとは思いませんし、それがすべてだとも思いません。
普遍的な宗教とはどのようなものだ、という一例を示したまでです。

神話や教義に基づく宗教は、誰もが信じることが出来るわけではありません。
しかし人権のような宗教は、無神論者でも信じることが出来るのです。

このように、人類共通の普遍的な価値観を打ち出して行くことが、宗教の統一のみならず、「世界を統一する」ということです。
そういう内面的な作業を、王仁三郎は「精神的統一」とか「道義的統一」とか呼んでいたのです。「宗教の統一」というのも同じことです。
そういうことをまず先にやって、それから外形的な法制度を統一する作業をやるというのが、世界統一の正しい手順です。

ここで一つ注意したいことは、人権思想のような宗教を学校で子供たちに教えても、それは教義を頭にすり込ませるだけのことで、真の信仰は芽生えません。人権という知識だけ教えても「人は尊い」「生命は尊い」とか「人はみな生まれながらにして自由で平等だ」という信仰が生じることはありません。
信仰は知識ではなく、むしろ経験則です。まず神様に手を合わせて拝んでみろ、というわけです。

私は子供の頃、虫を大量虐殺してましたが、あの体験で『もう無駄な殺生はしたくない』という思いが生じました。
信仰を深めるにはそういう体験が必要です。
とはいえ、動物を虐待したり同級生を虐めたりしては困りますから、それに代わる何らかの教育が必要です。
よく、クラスでニワトリを飼って可愛がり成長したら絞めて殺して食べる、ということをやっている先生がいますが、そういう体験をしなければ、生命の尊さを実感することはなかなか出来ないでしょう。

人類共通の価値観を打ち出したとしても、それがただの教義になってしまっては意味がないのです。
各人がそれを探究し経験して行くことによって初めて、その価値観を共有することが出来るのです。

そういう点で、王仁三郎が愛善苑会則第一条で示した「天地ノ公道万教ノ根本義ヲ究明シ」の「究明シ」という文言は、とても意味深いものがあります。
王仁三郎が「これが真理だ」と言って明文化されたものを示してしまっては、それが教義となってしまいます。
そうではなく、「各自で究明(探究)しなさい」と教えたのです。