火の雨はまだ降っていない? 予言解読の限界

投稿:2017年06月11日

予言というものはすべて、それが過ぎた後でなくては、それが指し示すものが何なのかを知る事は出来ません。
そういう意味で、予言の解釈は「後付け」だと言えます。
人間に、未来に起こることは、わからないのです。

ある予言が仮に「正しい」としましょう。
しかしそれを受け取る人間には、何が「正しい」のかはわからないのです。

王仁三郎は予言者としても有名ですが、予言が「当たった」というのは後付けです。
「火の雨」が降るとか言っても、明治~大正時代にそれが何を意味しているのかは分からなかったことでしょう。
昭和になって米軍の空襲で焼夷弾が降ってみて、そこで初めて「火の雨とはこのことだったのか」とわかったのです。
空から燃えながら落ちてくる焼夷弾は、まさに「火の雨」そのものです。

しかし。

王仁三郎は戦争が終わった後で、「本当の火の雨はこれから降る」と語っています。
どうやら焼夷弾は予言の成就ではなかったようなのです。
では「火の雨」とはいったい何なのでしょうか?? 火山の噴火? それとも流星群?

そんなことは分かりません。それが起きてからでないと分かりません。
予言の成就っぽい出来事が起きてから、「これはあの予言が成就したのだ」と騒ぐわけです。
そういう意味で、予言の解釈というものはみな後付けなのです。

これは人間の限界があるからです。しょせん人間には、その人が持っている知識の範囲内でしか物事を理解できません。(当たり前ですが)

先日、「空中郵便」の予言を紹介しましたが(空中郵便 ~百年前にスマホメールを予言)、しょせん私のアタマでは「文字が言語(声)を発する」デバイスなんて想像も付かないのです。SF的な知識を持っている人なら、何かおもしろい解釈をすると思うのですが、私には何も浮かんで来ません。(^_^;

予言解読の限界が分かるとてもいい例があります。
「空中郵便」の予言を、八幡書店社主の武田崇元氏が、学研ムー誌等に過去3回(当方の調査です)記事にしているのですが、時代と共に解釈が変化しています。

まず24年前のムー誌平成5年(1993年)2月号から。(p63-64)

 王仁三郎は『霊界物語』に奇妙な話を書いている。「昔のように今日の時代は、毛筆や鉛筆や万年筆の必要はありませぬ。ただ指先をもって空中に七十五声の文字記せば、配達夫たちはただちに配達してくれますよ。……文字が音声を発する時代となってきました」
 そんなことをいわれても、当時、だれひとり理解できる者はいなかった。が、この予言は、ワープロ、ファクシミリが出現した、まさに現代に生きているわれわれになら即座にわかるだろう。

当時はワープロ専用機やファクシミリの全盛期です。さすがに携帯電話もインターネットもスマートフォンも出て来ません。携帯電話が普及しだしたのは90年代の後半からです。

次はそれから12年後のムー誌平成17年(2005年)12月号です。(p34)

(略)文字が音声を発する時代となってきました」
 12年前に王仁三郎の特集を執筆した段階では、これが何を予言しているのかわからず、せいぜい「ワープロ、ファックスの出現」と指摘したのみだった。
 しかし2005年の現在、われわれは改めて王仁三郎の予言に驚かざるをえない。これはまさに、電子メールの予言でなくてなんであろう。
 未来世界を垣間見た王仁三郎は、電車の中で携帯電話でメールを打っている人々の姿を表現したのだろう。これこそ21世紀の初期から急速に普及しはじめた技術で、わずか十数年前のわれわれでさえ、想像もできないものだったのだ。

携帯メールは十数年前には想像もできなかったと言っています。私も90年代の初期からパソコン通信をやっていたので電子メールは使用していましたが、それが電話機で使えるようになり、しかも音声通話に代わるほど普及するとは思ってもいませんでした。

そして次はそれから8年後の平成25年(2013年)9月に発刊された『新約 出口王仁三郎の霊界からの警告』(学研パブリッシング)です。(p208-209)

(略)文字が音声を発する時代となってきました」
 筆者がこの予言を初めて紹介したのは、昭和五十八(一九八三)年のことである。当時はこれが何を正確に予言しているのかわからず、せいぜい「ワープロ、ファックスの出現」と解読したのみだった。
 しかし、二〇一三年の現在、私たちは改めて王仁三邦の予言に驚かざるをえない。これはまさに、電子メールや携帯電話の予言でなくて何であろう。未来世界をかいま見た王仁三郎は、あるいは電車の中で、あるいは散歩をしながら、あるいは喫茶店で、携帯電話やスマートフォンの小さな文字盤を、まさに「空中に文字を書く」ように異常な速度でタイピングし、メールや写真を送り、「○○w」とツィートする人々の姿を表現したのではないだろうか。

この頃になるとスマートフォン(2007年に登場)やツイッター(2006年に登場)の話題が出て来ます。
しかし私は、大きくて平べったい端末で電話したり、吐いて捨てるような短文を不特定多数の間で送受信するようなことがこんなに広まるとは思ってもいませんでした。未来を予測することは難しいです。

そして2017年を生きている私たちは、指輪型の、空中で文字を書くデバイスがあることを知っています。
王仁三郎の予言の正しさに驚かざるを得ません。
しかし文字が音楽のように聞こえる「文字が言語を発する」デバイスはまだ私たちは知りません。
それが出現してからでないと、その予言が成就したのかどうかは分からないのです。
ひょっとしたらラインの文字を初音ミクちゃんが歌って読み上げてくれるのかも知れませんが、そんなサービス普及しますかね?? ──いや、普及するのかも。

このように人間には、理解できることに限界があるのですから、その予言が何を意味しているのか、正確なことは分からないのです。

そうである以上、予言研究に没頭したり、当たり外れを云々したりすることはナンセンスではないでしょうか。

大正10年(1921年)の大本事件までは、大本は予言マニアや霊能マニアが集まる怪しいオカルト教団でした。
そんな予言マニアに注意を促す歌を、王仁三郎は次のように詠んでいます。(『真如の光』昭和9年2月10日号表紙の道歌〕

予言のみ好きな信者はともすれば 妖言(ようげん)過言(かげん)に脱線するなり

実は私も20代の始めの頃、予言の研究にかなり没頭していました。特に聖書の予言です。
そもそも日本語に翻訳された聖書を調べても本当のことは分からないと気がついて(翻訳者のフィルターが入りますから)、それでヘブライ語を勉強して原典から調べることにしました。

そして1~2年予言研究に没頭した結果分かったことは、『正しいことは、しょせん人間には分からない』ということです。
予言を発している存在(神)が人間に、未来の真実を伝えたところで、まずそれを受け取るメッセンジャー(預言者)の限界があります。しょせんはそのメッセンジャーの知識の範囲内でしか、神が伝えたいことを理解できないのです。真理はメッセンジャーのフィルターを通して歪曲されるのです。
そしてそれを他の人に伝える時に、それは人間の言葉(文字)を介して伝えられます。
自分の思っていることを100%正確に言葉にすることは出来ません。限界があります。
そして聞き手の限界があります。メッセンジャーが発した言葉を100%正確に受け取ることは出来ません。しょせんはその聞き手のフィルターを通して歪曲した形でしか理解することは出来ません。

神 → メッセンジャー → 人々

という伝言ゲームなのです。真実が伝わるのかとても疑問です。

これではいくら研究したってしょうがないです。時間の無駄です。
この「分からない」ということが分からないと、神の道は先に進むことは出来ません。同じところをグルグルと回り続けることになります。

王仁三郎は、前述の歌に続いて、次のようにも詠んでいます。

予言とは神の予定の示顕(じけん)なり 予言と確示(かくじ)はやく悟らへ

予言はあくまでも神の「予定」だと言うのです。たとえば大本神諭には「立替えが十二年遅くなりておる」と書かれてありますが
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=os001&mka=a029#a029
予定なので、遅れたりもするわけです。
予定なので、変更になることもあるでしょう。

歌に出て来た「確示」というのは、どういうことを言っているのかよく分かりませんが、大ざっぱな流れ、抽象的なことであれば、確定なんだと思います。
しかし細かいことまでは分からない。
空中で指を動かすと文字になって相手に届けられ、それが音声を発する、そういうデバイスが21世紀の初期から使われることになる・・・という抽象的なことは確実でも、具体的にどういうデバイス、サービスなのかまだは分からないし、変更になるかも知れないし、時期も前後するかも知れない。

細かいことは気にしないことです。
大ざっぱに考えるようにして下さい。

予言を紹介していると、若い頃の私のように、その世界にハマって底なし沼に落ちてしまう人がいるので、注意を促すため書いておきました。