「みろくの世には宗教は不要になる」の意味

投稿:2017年05月23日

王仁三郎の名言の一つに「みろくの世には宗教は不要になる」というものがあります。
宗教の教祖様のクセに、宗教が不要になるだなんて、まるで自己否定のようなことを言っているのだから驚いてしまいます。

その発言の出所は「宗教不要の理想へ」という題名の文(講演録)で、機関誌『神の国』大正13年(1924年)1月号に掲載されたものです。『出口王仁三郎全集』や『出口王仁三郎著作集』にも収録されており、霊界物語ネットで読むことが出来ます。
『出口王仁三郎著作集 第二巻』「宗教不要の理想へ」
その発言を引用してみます。

宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。主義・精神が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。今までより広い大きい考えで、世を導く精神にならねばならぬ。
大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神様の大本、三千世界の大本であることを取り違いしてはならない。(中略)
かかる次第で、神は元は一つの神に統一されているのであるから、別々に争うベきはずのものでない。

なるほど。たしかに「宗教はみろくの世になれば無用」だとか「宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目」だとか、宗教を否定しているようなことを言っていますね。

とはいえ、神への信仰心がなくなるわけではないようです。
「主義・精神が第一」とか、「名は少しも必要ではない」とか、「別々に争うベきはずのものでない」とか、つまりセクト争いがなくなるということ──現在のように無数の宗教宗派に分かれて「自分が正しい」「お前が間違っている」という善悪正邪の醜いセクト紛争がなくなる、そんなことをやっている間はダメだ──という意味のようです。

この前後の文章をもう少し読んでみましょう。

大本は筆先にある通り、世の中が至粋至純であれば、神様の教えは要らぬのであります。(中略)

愛は善のため、愛のための愛であって、決して自己のための愛であってはならぬ。
戦争に立って国のためになったと言うが、それも実はやはり自己愛の拡張に過ぎぬのであって、も一つ大きい「世界愛」でなければならぬのであります。
人類人主義・万有愛の神愛でなければならぬ。(中略)

しかしながら、大本は世界的のものであって、神は万有を愛するのが主意であるから、固すぎて孤立する事は駄目である。
日本は世界に孤立し、大本は日本から孤立している現状である。(中略)
エスペラント語やローマ字を始めるのも、この精神に外ならないのである。(中略)

神意に反いていないと信ずるから、ローマ字やエスペラントを奨励して、世界的に進んで行かねばならぬのであります。まずローマ字やエス語を知り、余力を以て日本人全般に押し拡げ、やがて世界各国にこの運動を及ぼしたいと覚悟しているのである。(中略)

祖先以来、愛国主義が誤って排他に陥り、自己愛になってしまっては善くない。
世界同胞の考えを持たねばならぬ。排他は神意に反することであって、今の時代、小さい事を言っているようなことでは駄目である。

しかし日本人としては、兵役の義務・納税の義務の如きものには、よくその義務に服すベきであって、誤解があってはならぬが、これだけでなく、さらに神の愛の「情動」がなければいかぬのである。

真の愛は親の愛であって、理智を伴わぬものである。
神の愛は真の愛であって、俗に謂う神の罰など、神は決して罰を当てるものではない。

罰というのは人間の作った法律であって、神の愛はそんなものとは違うのである。
すべて善悪不二のもので、善悪超越する時、そこに初めて真善があるのである。
国法の定むる善悪にまず従いつつ、さらに神意を考えて行かねばならぬ。(中略)

世界を愛し、人類を愛し、万有を愛する事を忘れてはならぬ。
善言美詞(ぜんげんびし)を以て、世界を言向和(ことむけやわ)す事が、最も大切である。

神の前のみでなく、人の前でも同様に善言美詞を用いねばならぬのである。
神に救われんとして、かえって神に反くことが少くないから、決して他人を排したり批難したりするものでない。

祝詞のことばが真の善言美詞であって、実は今の日本語も外国語を輸入した言葉が大部分であるから、中途半端の日本語は決して善い事はないのであって、外国語を排するならば、現今の日本語も同様の意味で外国語として排斥せねばならぬわけになってしまう。

こんなわけで、ローマ字やエス語を学んで、早く五大洲に共通の言語を開くのが必要なことであるから、宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。

主義・精神が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。

今までより広い大きい考えで、世を導く精神にならねばならぬ。
大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神様の大本、三千世界の大本であることを取違いしてはならない。(中略)

かかる次第で、神は元は一つの神に統一されているのであるから、別々に争うベきはずのものでない。
すべての争い・悪み・妬みを止めて、善言美詞を以て言向け和さねばならぬから、世界を言向くる世界共通語のエス語を第一に研究せねばならぬ。
ローマ字もまた真の善言美詞の日本語を保存して行く上に、大なる必要があるのである。
総じて前述の世界愛・万有愛の神の愛に押し拡げて、大きな精神になって貰わねばならぬのであります。

王仁三郎は、宗教とか、国というもの自体を否定しているわけではなく、一宗一派、一国一城に閉じ籠もって、排他的になってしまうことを否定しているのです。

エスペラント語というのはポーランドのザメンホフという人が国際補助語として開発した人造言語です。(詳細はウィキペディアを)
これは単なる言語ではありません。争いを無くすためにはまずコミュニケーションを取る必要がある、そのためには異なる国の間・民族の間で言葉が通じなくてはいけない考えて開発したのです。ただの言葉ではなく新精神運動の一種なのです。
王仁三郎は大正12年(1923年)から、エスペラントの普及活動に取り組み始めました。
また同じ頃から、日本語のローマ字表記にも取り組み始めましたが、これも大本・日本を国外の人に知ってもらうために他なりません。
また他宗教との提携や、宗教連合会を結成するなど、各国・各宗教の相互理解を推進して行きました。

王仁三郎は宗教を否定しているのではなく、逆にすべての宗教を肯定していると言ってもいいでしょう。
すべての宗教の信者になれば──結果として、自分の中で、宗教というセクトはなくなるわけです。
それがミロクの世です。

たいていの人は一つの国籍しか持っていないでしょうけど、すべての国の国籍を持つ超多重国籍者になったらどうでしょうか?
──もはや国境という垣根はなくなりますよね? どこの国に住むのも自由です。
それがミロクの世です。

現実には、自分の国しか・自分の宗教しか知らない人が大多数です。
そして自分の国が正しい・自分の宗教が正しいと思い込んでいるのが現状です。
そうして「自分が正しい」「お前が間違っている」という迷路の中をみんなでグルグルと回り続けているのです。
その迷宮からの脱却を王仁三郎は唱えているのです。

しかし、一宗一派、一国一城に閉じ籠もってしまうのには理由があります。そりゃあ、小さな精神しか持っていないということもありますが、他者から攻撃を受けたとか、自分の生活で精一杯で他人のことなんて構っていられないとか、いろいろあるわけです。

宗教が不要になる世界を創ろうというのは、引き籠もらなくてもいい世界を創ろうといことに他なりません。

(この文章は「霊界物語スーパーメールマガジン」2014年10月13日号掲載の文章に加筆訂正したものです)