出口王仁三郎「龍門開き」の御神業

投稿:2017年05月02日

奈良県吉野町と宇陀市(うだし)にまたがる龍門岳(りゅうもんだけ、りゅうもんがだけ)という山があります。ここもまた王仁三郎の御神業の地です。
この山で行われた王仁三郎の御神業を「龍門開き」と呼ぶことにします。

この御神業の要点は次の3つあります。

  • 五六七神政成就の御用のため、この方面の神々を大本に引き寄せた。
  • 如意宝珠の神宝が大本に奉納された。
  • この御神業をきっかけに鎮魂帰神の修業方法が変更された。

   ○   ○   ○

龍門岳は標高904メートル。こういう山です。↓
http://www.town.yoshino.nara.jp/kanko-event/meisho-kanko/shisetsu/ryumon-nakaryumon/ryumondake.html

このページの写真の手前に写っているのは津風呂潮(つぶろこ)というダム湖で、その奥に見えているのが龍門岳です。

地図だとここです。
https://goo.gl/maps/rn8scthiss72

大正9年(1920年)5月、王仁三郎一行90数名は龍門岳を参拝しました。
その時の回顧歌が機関誌『神霊界』大正9年5月21日号(その時期は月3回刊だった)に掲載されています。この号は特別に「龍門号」と名づけられているので、龍門開きが単なる参拝ではなく特別な御用だったことがわかります。

「大和紀行」と題されたその歌(まだテキスト化していなので霊界物語ネットにありません)は三部構成で、小見出しが「龍門岳(壹)」「龍門岳(貳)」「龍門岳(参)」と付けられています。「龍門岳(壹)」はさらに「一」から「二十五」にわかれています。
この「龍門岳(壹)」の「十九」(p15)に「龍門開き」という言葉が出てくるので、そう呼んでいいと思います。
この「大和紀行」をもとに、龍門開きの足跡を追って行こうと思います。
(メモも兼ねていろいろ細かいことも書いて行きます)

   ○   ○   ○

一行は5月6日(木)綾部を汽車で出発。人数は「九十五名の一行は」と歌われていますが、「六」から「十一」までの歌で姓名が折り込まれている人は97人います。その中には王仁三郎や丸山貫長(現地のお寺の僧侶。後述)も含まれているので、綾部を出発したのは王仁三郎の他に「九十五名」という意味かも知れません。

一行は「京都駅」で降りて、「七条駅」で奈良線に乗り換え。
京都駅も七条駅もどちらも同じです。次の地図は大正3年の地図ですが、当時は七条駅とも呼ばれていたことがわかります。
奈良線は明治期には「奈良鉄道」と呼び、奈良鉄道の駅を「七条駅」と呼んでいたようです。(今の京阪電鉄の七条駅とは別)

大正3年の京都の地図

(この地図はこちらのブログに掲載されていたものですが著作権切れの地図だと思いますので無断で使わせていただきました)

奈良、天理を経て、桜井駅に到着。
ここからは自動車です。
松山町(現在の宇陀市大宇陀の中心部)を経て、「上龍門(かみりゅうもん)」の「牧」(宇陀市大宇陀牧)に到着。現在の国道370号線です。
丸山貫長(まるやま・かんちょう)の草庵を訪れた時は午後3時になっていました。

丸山貫長(1843~1927年)は真言宗の僧侶です。龍門岳の山麓にある大蔵寺(おおくらじ)の住職をしていました。
プロフィールがここに載っています。
「丸山 貫長|安曇野ゆかりの先人たち」
https://www.city.azumino.nagano.jp/site/yukari/2084.html

大蔵寺の公式サイトはこちら
http://ookuraji.jp/

ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%94%B5%E5%AF%BA_(%E5%AE%87%E9%99%80%E5%B8%82)

大蔵寺の位置
https://goo.gl/maps/PkbmouDbyaL2

お寺は山の中にあるようですが、住職の草庵は別の場所にあったようです。
一行はここで多数の宝物を拝観し、日が西に傾いてきたころ、出発。「中龍門」の「柳村」へ向かいました。

ちょうどいい地図が見つかりました。大正9年発行の吉野地方の5万分の1の地図です。
この地図のちょうど真ん中あたりが龍門岳です。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/001910975.html

「大蔵寺」や「牧」は龍門岳の東にありますが、「柳」は南にあります。
自治体としては吉野郡の「上龍門村」「中龍門村」です。柳村というのは合併前の呼び方です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%96%80%E6%9D%91_(%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C)

一行は柳村の「加藤酒店」に、入相の鐘(いりあいのかね…日暮れにお寺でつく鐘)と共に到着。
そこで湯に入り、夕飯をいただきました。
この加藤さんという人が大本信者なのか、好意で泊めてくれたふつうの酒屋さんなのかは不明です。
それにしても100人近い参拝団です、食事の支度も大変だったでしょうね。家もかなりデカそうです。

「六」から「十一」まで、97人の姓名折込歌が続きます。
王仁三郎の他に、出口直日(長女、三代教主)や出口大二(ひろつぐ、直日の最初の夫)、浅野和三郎や浅野正恭(和三郎の兄)、森良仁、井上留五郎、湯浅仁斎、矢野祐太郎などの当時の大本幹部がずらりと続きます。植芝盛平もいます。澄子夫人はいません。直日以外に女の名はありません。

一行は翌7日(金)、龍門岳に登拝。
出発時刻は詳しく書いてないのでよくわからないのですが、日の出前かも知れません。「龍門岳(貳)」に「高鉾山(龍門岳のこと)の頂上(たかね)より 登る朝日を拝すれば」と書いてあるので。

登山ルートは「山口」からだと思います。
「柳」(中龍門)からもう少し西に2~3キロ行くと「吉野山口神社」があり、そこから登山道に入ります。
https://goo.gl/maps/sajUfiTDdQA2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%9C%E9%96%80%E5%B2%B3#.E7.99.BB.E5.B1.B1.E3.83.AB.E3.83.BC.E3.83.88

途中に「龍門の滝」や「龍門寺跡」など名所名跡があり、神社から1時間半くらいで山頂に着くようです。
ネットで探すと色々登山記録が出て来ます。たとえばこのブログとか。
http://19511727.at.webry.info/201202/article_5.html
http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=746

山頂には小さな祠があります。上のブログの中に写真があるので見て下さい。
この祠は高鉾(たかほこ)の神(高皇産霊神)を祭る社で、吉野山口神社境内にある「高鉾神社」の奥宮です。
http://www.genbu.net/data/yamato/yosinoyamaguti_title.htm

王仁三郎一行が山頂に到着し、参拝した時の出来事が「十二」で歌われています。要約すると──

王仁三郎が皇大神の神勅を奏上しようと、社の扉を開くと、神人感合して瑞の御霊(素尊?)が顕れて厳かに宣示した。──諸神諸仏、諸竜神、諸眷族よ集まって神の言葉を聞け。大正維新の神業は金輪王(こんりんおう…大本神諭に何度か出てくるが、艮の金神さんのことか?)の勅命を神仏一々遵守して五六七出世の暁のその御尾先(みおさき)に根限り力の限り尽くされよ。早く綾部の聖地に昇り神政に参加すべし。──すると諸神諸仏も勇み立ち、神の使いの金鵄鳥(きんしちょう)が二度も社前に舞い降った。すると突然強風が吹き雷鳴が3~4回轟き渡り、にわか雨が降った。「実(げ)にも尊き言霊の玉の力は如意の如(ごと)」

──これが「龍門開き」の御神業です。

『大本七十年史』上巻p437にこの御神業のことが記されています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195401c2322

 一九二〇(大正九)年度においても、八重垣神社・桃山御陵・沓島・冠島・神島等への団体参拝がおこなわれたが、とくに重大な神務とされたのは、大和国竜門岳の参拝であろう。これは「如意宝珠」の神宝を受けとるためであったという。五月六日に王仁三郎教主輔をはじめとする一行九七人が、綾部を出発し、大和の上竜門村の丸山貫長をたずね、同夜柳に宿泊した。翌七日には竜門岳の神秘を感じて上市に泊り、十日夕綾部に帰着した。

如意宝珠の神宝を受け取るため・・・と書いてありますが、その言葉の意味はこの後わかります。

一行は山を下りた後、酒を呑み、いい気分で酔っ払いながら(笑)道を歩いて行きました。
行き先は「鷲家(わしか)」です。
これは東吉野村の集落です。少々離れています。山口から8~9キロあると思います。
位置関係がよくわかるように地図を作りました。

龍門開き関係地図

さて、ここで問題があります。
「龍門岳(壹)十三」と「龍門岳(貳)」によれば、一行は「鷲家」あるいは「鷲家口(わしかぐち)」の集落に鎮座する、「高鉾神社」で参拝しているのですが、該当する神社がありません。

鷲家なら「八幡神社」、鷲家口なら「愛宕神社」がありますが、祭神は異なりますし、『吉野町史』や『東吉野村史』で由緒も調べてみましたが、それっぽい記述は見つかりませんでした。

一行が参拝した神社は不明ですが、参拝後に一行は二手にわかれます。
出口王仁三郎と丸山貫長和尚、ほか4人は、「二里の行程」を歩いて「柳」(中龍門)に戻ります。
そのメンバーな姓が歌に折り込まれていますが、たぶん次の4人だと思います。
多田玖仁麿
中村純也
谷寿衛(たに・すえ)
高橋謙一郎

再び加藤酒店に泊まり、翌8日(土)は「午の刻」(正午ごろ)に馬に乗って、「牧」(上龍門)の丸山貫長の草庵へ。
そして「義経公の宿りたる 名家石増(いします)邸に付く」というんですが、この石増邸はどこなのか不明です。到着は午後5時。
この日はそこに泊まったようです。
吉野には義経伝説が伝わっていますが、吉水神社とか勝手神社とか、場所はちょっと離れています。金峯山寺の方です。
http://www.yoshimizu-shrine.com/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E6%B0%B4%E7%A5%9E%E7%A4%BE
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%89%8B%E7%A5%9E%E7%A4%BE

龍門岳に参拝してから、ずっと雨が降り続いていたようですが、翌9日(日)は晴れ渡って五月空。
九頭神社に参拝したり、川で魚釣りしてコイを釣り上げたり。
そして大蔵寺に参拝。法会に参加。
そこへポリスが現れますが、しかし般若湯を呑んで舌ももつれヒョロヒョロとお帰り(笑)

その日も牧に泊まり、翌10日(月)午前9時、一行は自動車に乗って出発。
「一行七人」と書いてありますが、王仁三郎と丸山貫長を含めて6人しかメンバーがわかりません。
そして正午前に桜井駅を発って、午後6時に綾部駅に到着。ごくろうさまでした。

   ○   ○   ○

さて、7日に鷲家(あるいは鷲家口)で王仁三郎とわかれた残り約90人(計算では91人)の行方ですが、「龍門岳(貳)」に書いてあります。
この歌は「帰途の瑞祥」という副題が付いており、ここでようやく「如意宝珠の神宝」のエピソードが出て来ます。

一行は「宮滝」(吉野川が絶景)と経て「上市(かみいち)」(吉野町の中心街)に到着。
するとそこの宿の店頭に、玉を抱いた竜神の姿を発見!
原文は「・・・竜神の玉を抱きし御姿(みすがた)・・・」です。これが、「玉」を抱いた竜神なのか、「玉を抱いた竜神」なのかはわかりません。つまり物質としての玉を持った霊体の竜神が見えたのか、玉を持った竜神の像(木彫りの像のようなもの)なのか。
どういうものなのかはわかりませんが、それを植芝盛平・湯浅仁斎ら5人がお金を出して購入し、大本へ奉納したことが歌われています。
この宝物は王仁三郎が霊眼で見ていたものでした。

「・・・かねてより 王仁の霊眼(まなこ)に映じたる 神政守護の神宝(たから)なり」

王仁三郎のもとには、いろいろな玉や宝物が集まって来たんですが、この玉(あるいは玉を持った竜神像)もまたその一つだったわけです。これが大本七十年史に書かれていた「如意宝珠の神宝」です。

一行のその後の足取りは書いてありませんが、その日はその宿に泊まり、翌日帰綾したんだと思います。交通手段はたぶん近鉄吉野線だと思います。
上市から少し歩くと「六田(むだ)駅」があります。当時は「吉野駅」という名称でした。
今はその先の大和上市駅、吉野神宮駅、吉野駅までありますが、それが出来たのは昭和3年のことで、大正9年当時は六田駅が終着駅でした。

   ○   ○   ○

これが龍門開きの御神業の全容です。
一次資料としては、『神霊界』大正9年5月21日号に掲載の王仁三郎作「大和紀行」くらいしかないと思います。(他にあったら教えて下さい)
厳密に言えば、その前の号(5月11日号)に「龍門隊紀行歌」というのが載っていますが、これは「大和紀行」の最初の方の一部分だけです。残りは「以下次号」と書いてありますが、たぶん最初から書き直したようなかんじです。こちらではなぜか人数が「九十七名」ではなく「八十八名」になっています。いろいろ数え直したりして、次号で読み直したのでは?

丸山貫長との交際は以前からあったらしく、『神霊界』大正9年2月11日号の「随筆」で王仁三郎は次のように書いています。

 大本時報八二号に一寸紹介されました、大和国吉野郡龍門寺の住職、丸山貫長氏が、東京の山口氏に宛てた手紙が、今回手に入りましたから、参考のために載せることに致しました。
 来る大正辛酉年は、六十一年目に回り来る、金門鳥敏と唱へ、大災厄の年なり。(以下略。霊界物語ネットで読んで下さい)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195502c110713

丸山貫長自身も寄稿しています。5月21日号に「高鉾の歌」(未テキスト化)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919200521c06
と「龍門の霊夢」が載っています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919200521c07

この「龍門の霊夢」を読むと、丸山貫長も龍門岳の神霊に導かれているようですね。

あと、同行した井上留五郎が6月1日号に「龍門行」という漢詩を載せていますが、漢文なのでよくわかりません。(未テキスト化)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919200601c07

   ○   ○   ○

龍門開きには、もう一つ、大きな意味があったようです。先ほどの『大本七十年史』上巻に、次のように書いてあります。

 龍門岳の神事を転機として、前述のように、とくに鎮魂帰神の実修法があらためられたが、ついで六月四日には、役員会において王仁三郎教主輔から、宣教のうえにおける予言についてはつつしむよう注意があたえられている。

鎮魂帰神の実修法をあらためる次のような告示が神霊界の5月21日号から掲載されているのです。

   公告

今般、教主補大先生、龍門ケ岳の神事御遂行を一転機として、大本内修業の形式にも一般化を来し候は、予ねての神界お仕組の進行と承り及び候。即左の如く一般に御心得下されたく候。
一 従来の鎮魂帰神の実修法を更め、単に静座瞑目せしめて、お筆先を守護神に聴かしむるに止め、施術者の霊を注ぎ気合を掛くることを廃す。(但し静座の姿勢は従前の通り)
一 修業一週日を過ぎたる修業者には、自習認可の印證を捺印す。
一 病気鎮魂及び、憑霊の発動者には、特別鎮魂を施すことを得。其要領は従来の通りとす。
一 各支部各会合所も、此の通知に接し次第本部の型に倣ふものとす。

   五月十五日   教務局

この公告が6月11日号まで掲載されています。
第一次大本事件の前まで鎮魂帰神(言うなれば心霊術とか霊能開発の類)を盛んにやって人を集めていたわけですが、事件後は帰神を禁止して、鎮魂だけにしました。しかし厳密に言えば事件の8ヶ月ほど前の大正9年5月から、禁止のお触れを出していたのです。
それはこの龍門開きの御神業がきっかけになっていたのでした。
「一般化を来し」ということなので、これまでのように人目を引くような特殊なことをやめる、ということだと思います。
大本がカルト教団から世界改造団体へ変化して行く魁けだったと言えるでしょう。