日本神戸道院の設立

投稿:2015年11月24日

中国史学者の酒井忠夫氏の著書からの引用です。

酒井忠夫「近現代中国における宗教結社の研究」『酒井忠夫著作集6』2002年3月、国書刊行会、P214-219

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(四)日本神戸道院の設立
 道院創始以来二三年間は中国各省県に推行するのみで、海外には出なかった。海外設院は神戸道院の設立より始る。その発端は大正十二年(民国十二年)九月一日の関東大震災の時、道院紅卍字会は乩訓を奉じて救難に当ったが、その帰途素爽(済南道院の道監侯延爽)と円誠が神戸に寄って布道した。在神戸の総副領事及び華商会会長等の紹介により、六七名のものが求修した。これが東瀛(日本)佈化(布教)の始である。円誠が帰国し、素爽一人が日本に留った。素爽は南京出発の時、在南京日本領事館の林出賢次郎領事(後、入修し、道名尋賢)より大本教への紹介状を貰って来たので、彼は京都府綾部に赴き教主出口王仁三郎(後道名を尋仁とす)と会い、共に道旨を談じ、大いに共鳴し、素爽は自ら神戸道院の創設を任とし、神戸市外六甲山麓にある大本教信者片岡春弘の別邸を院址とした。かくて一時に求修するもの百数十人に上った。次いで王仁三郎はその弟子北村隆光(道名尋宗)を代表として派遣し、素爽と共に京・津・済(南)に到らしめ、乩判を奉じて位経(老祖の神位と太乙経)の日本への東渡を請い、許可された。神戸道院創立に当っては、道院(中国)側は、慧済を神戸道院統掌暫定代理、円誠を院監代理、華和を院監兼宣掌、素爽を坐掌として派遣した。その上で、尋仁(出口王仁三郎)を責任統掌として派遣した。尋宗(北村隆光)は再び中国に赴き、太乙真経の束渡を請願した。素爽・華和らは、尋宗とともに神戸に行き、慧琴(俗名・賀某)を纂正とし、尋宗をその助とした。こうして大正十三年三月六日を期して神戸道院を開くに至った。この開院式当日は、各界の参観者百余名、求修者三百余名という盛況であったと『道慈綱要大道篇』にある。右の日本に於ける道院の設置は、大本教と道院という二つの宗教結社が相互に利用し合った形であって、この両者が相依関係に立ったということは、両者の教旨の内容が類似していた為であろうと考えられる。教旨の類型的な二教団が、一は中国の宗教結社の民国初期十年代の政・社・文化の変革期に対応可能の道院紅卍字会であるに対し、他は日本の邪教として禁断せられるに至った所以は、第一に日本と中国との国体の差異、第二に国体と関連して社会体制と表裏をなす日本の民族宗教(習俗)を代表する氏神・鎮守一体の神社神道の形式は、中国の宗教結社には存在しないということであろう。以後日本に於ける道院の増加は夥しい数に上ったとこの教団の間で言われているが、それは悉く大本教の教団的地盤を利用したものに外ならない。序に神戸道院開設後の日本に於ける道院の発展の概略を次に述べよう。但しこのことは民国十七年までの所謂発展時代以後のことであり、『道慈綱要』では民国十八年以後の所謂拡化時期に属している。
 神戸道院開設後、民国十八、九年の交(昭和四、五年)、前後二回に亙って満洲及び中国本部の道院から「東瀛佈道団」が日本に派遣された。詳しく言えば昭和四年(民国十八年)春、日本人西島(道名宣道)が奉天道院に於いて乩訓を仰いだところ、「宣道の来るは、東瀛の道を宣べ西欧に及ぼさんが為なり。此れ至機に中る。皆定数あり」と出た。次で彼は安東道院に至り訓を奉じて安東の統監性真(王筱東)をして奉天(東北主院)・大連・長春・営口等の各院と協商させて神戸道院に於ける開沙(乩壇の開設)に従事させた。適々大本教の人類愛善会奉天支部長富村順一(後入修し道名循一)が愛善会と卍字会とは宗旨相同じものであると考え、藩陽主会(奉天の紅卍字会)に手紙を出し相互の提携を申込んだ。かくて両者は大いに共鳴し、遂にこれが東瀛佈道団の起因となった。かくて秋八月朔、安東道院の性真等は訓を奉じて専ら東瀛佈道のことを主どり、更に済南母院・北京総院とも連絡してその準備を整え、瀋陽主院(奉天道院)に集り、東瀛佈道団簡章を議決した。佈道団一行十八人、団統は安東道院の性真王筱東、団員は主として瀋陽・大連・営口等の満洲各地の道院から派遣せられ、他に済南(素爽)・北平・済寗各道院からも入っている。この一行の中に日本人西川那華秀(道名尋化)、西島佐一(道名宣道)の両名が共に瀋陽道院から派遣されている。一行は中秋後一日奉天を出発し、安東京城釜山を経て神戸に至り、秋分の日(一九二九年八月二十一日)より五日間神戸道院にて開沙(砂壇の開設)した。これは神戸道院成立後第二回目の開沙である。神戸道院の開沙が終り、一行は大本教の本拠たる大本瑞祥会本部のある綾部に到り、王仁三郎を訪ね、次いで中央主院を此処に設けた。亀岡には日本総道院行院を設け、大阪では八月朔に開院し開沙すること二日に亙った。次で重陽日には東京に総院を設けた。
 右の如く日本各地に道院が設けられ、主院・総院の体制も整ったので、次には神位の供奉が行われねばならぬが、それには既に定式があるので、母院が恭請し、此次東瀛佈道については訓を奉じて、長さ四寸七厘、幅二寸七分を神位の式とし、正面に道旗の炁胞の形を書し、背面にその説明を書くことと定め、妙因に命じてそれを撰述させた。式は次の通りである。

「正面の炁胞内に、老祖及び五教主を恭書」
背面の説明は「至聖先天老祖又曰太乙老祖、即一炁孕育万霊之大主宰、亦即天之御中主大神。
下列耶釈道回儒五教教主……此位乃表五教帰源一道之意」とある。

 日本の道院では老祖を天之御中主神としている。日本の神話(太陽神即ち天照大神を天の神とする)にある天之御中主神は、中国の大宇宙の天神思想の影響を受けて附加された神であることが明らかである。次に日本各院の職責を定めることとなり、訓を奉じて尋仁(王仁三郎)を日本総院統掌とし、以下それぞれ定め、又承仁(尋仁、王仁三郎の妻)を日本婦女道徳総社の社長とした。佈道団の日本滞留中は、大本教関係のものは盛大に歓迎した。各駅では凡そ大本教の支部のある所であれば、信者である士女が各々旗を手にして歓迎会をし、多きは数十百人に及んだ。東京では中国公使館及び東京市長の歓迎宴会が行われ、団員代表は其処で院会の大旨を演説し、聴くもの皆道慈救世の要義を暁ったと言う。一行は日本に滞在すること一ヶ月、安東を経て奉天に帰った。此の時王仁三郎は済南母院参拝を発願し一行に従い奉天まで行ったが、時機不適当のため帰国した。第二回目の佈道団は民国十九年(一九三〇、昭和五年)春、京都で宗教博覧会が催された時、東京総院より瀋陽主院に参加を勧誘したことに端を発する。瀋陽主院ではこれを母・総院に諮ったところ代表を派遣し兼ねて日本に於ける道慈の事務を視察させることとした。この時は臨佈道院の慈果(梁慶雨)が団長となり、団員十名、その中第一回渡日の人は六名、北京道院より一名が参加した。この度もその大部分は満洲各地、主として瀋陽道院の人で占められている。日本人としては瀋陽に籍を置いた西川那華秀が第一回同様参加している。一行は瀋陽を陰暦二月十四日に出発、神戸を経て京都に至り博覧会を見学し、ここで道院を設け書画壇を開き、亀岡・綾部を経て東京に至り、此処での訓に道慈に関する詳細な説明が現れ、その中で道と宗教との区別を闡明し、その帰結は「中正和平」にありと示されたと言う。其後大阪安東経由で帰った。この東瀛佈道団二回の派遣で、日本に於ける道院は各地に設けられたと称せられる。『道慈綱要』によると昭和四年より六年に至る(民国一八-二〇)間に四三一箇所に及んだことになっているが、これ等は恐らく大本教教会の基礎を利用し、それを道院と称したものであろうと思われる。かく日本に於いては教団の地盤もその伝道の便宜も大本教に拠ったものであり、両教団は表裏一体であったから、邪教大本教の壊滅(昭和十一年)と共にすべては消滅した(戦後復活)。日本への佈道に際しては日本的なものと合一すべき努力は払われたけれども、中国の宗教結社は日本の社会国家に受容せられることは理論的にもあり得ないことであるし、日本固有の神社神道と「宗教」の差違の問題についても究明さるべきである。又この間題には、日本の社会に発生した大本教の研究にも俟たねばならぬ所が多いであろう。日本の民族社会としては受容されないこの宗教結社も日本人個個人が宗教として受取る場合は問題を異にするものと考えられる。この教団の日本伝道は主として奉天の道院が中心となって行ったもので、日本と満洲及び華北の文化的な人的な交渉を重ねたことで教団の活動以外の点で意義のあったことは、見逃せない事実であろう。
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