王仁三郎の伝記によく出て来る地名地図の綾部編です。
正確な位置ではなく、おおまかな位置です。
「本宮山(ほんぐうやま)」は大本の聖地の御神体山です。
右上の「上谷(うえだに)」は、幽斎修行場があったところで、第37巻第24~25章などに出て来ます。
○霊界物語 第37巻第24章~25章
○大地の母 第6巻 上谷修行場
もともとは別のところで修行をしており、第24章には「本町の中村竹造氏の宅」から「本宮の東四つ辻、元金光教の広前」に移り、そして「神界へ伺つた上、猿田彦神の御神勅で山家村(やまがむら)の鷹栖(たかのす)へ修行場を移転する事となつた」と書いてあります。
その「鷹栖」は、上谷の下(南)にあります。
鷹栖の後、上谷に修行場が移りました。
次の地図は大正時代の綾部近辺の地図です。(大正15年発行『何鹿郡誌』収録の地図)
鷹栖は山家村に、上谷は西八田村に属しています。
昭和25年(1950年)に、綾部町と西八田村、山家村など何鹿郡(いかるがぐん)の町村がが合併して、綾部市が誕生しました。(ウィキペディア)
次は、綾部の中心部の地図です。
出口ナオがもともと住んでいたところは、「元屋敷」と書いてあるところです。五女の出口澄子さんもそこで生まれました。
しかしその家は、長女のお米(よね)さんの夫・大槻鹿造によって売り払われてしまいました。
ナオが神懸かりになり、「世界のことをみて改心いたさねば、どこへ飛び火がいたそうも知れんぞよ」と、艮の金神さんのメッセージを叫んでいたので、この「飛び火」という言葉から放火犯と間違われて警察に捕まってしまったのです。
真犯人は捕まりましたが、ナオは精神異常と見なされ、大槻鹿造の家の座敷牢に閉じ込められてしまいました。
その後、大槻鹿造がナオに無断で家や家財道具を売り払ってしまったのです。
その大槻鹿造の家があったのが「西町(にしまち)」です。
北西町と南西町があり、大槻宅は北西町にあったようです。
○大本七十年史 上巻 放火の嫌疑、四〇日の座敷牢
○大地の母 第4巻 座敷牢
上田喜三郎が出口ナオと初めて面会した頃、ナオが住んでいたのは「裏町」です。貧しかったので、狭い土蔵の二階を借りて神様を祀っていました。
その後、明治32年(1899年)7月に、「本町」の中村竹蔵を家を借りて、金明会の広前にし、裏町の土蔵から引っ越しました。
その遷座祭の説きに、祭典用に注文した提灯が届けられると、九曜の紋を指定していたはずなのに、間違って十曜の紋になって作られていたのです。それから大本の神文は十曜の紋と定まりました。
裏町は現在は住所としては残っていないようです。出口和明『大地の母』には、裏町は現在の若竹町とも若松町とも書いてあります。(第4巻、第5巻)
若竹町も若松町も隣接しているので、昔はその辺り一帯が裏町だったのかも知れません。(地図にマークしてあります)
「並松(なんまつ)」は、霊界物語の口述を始めた松雲閣(しょううんかく)という建物があったところです。現在その場所は「現長(げんちょう)」という名の料亭があります。