言向和(18) 「無抵抗主義」は究極の抵抗術

投稿:2017年08月03日

無抵抗主義のことはこれは今までに何度も本やメルマガやブログ等で書いて来ました。
それの繰り返しになってしまいますが、あらためて読んで下さい。

「無抵抗主義」は三五教の重要な教えの一つです。「言向け和す」と密接に関連しています。
あるいは、「無抵抗主義」と「言向け和す」は表裏一体であると言ってもいいかも知れません。

霊界物語に「無抵抗主義」という言葉は約50回出て来ますが、その使用例をいくつか書き出してみます。

「無抵抗」という言葉のイメージから、不当な圧力にも戦わずに屈服してしまう軟弱な印象を持つ人もいると思いますが、それは全く異なります。次のように、実に力強いものです。(そのようなイメージは誤解であると第28巻跋に書いてあります)

いかなる強敵に向かっても、あくまで無抵抗主義で、誠で勝つのだよ。〔第15巻第9章〕

無抵抗主義の三五教の宣伝使も、やむを得ず正当防禦のつもりで、両手を組み天の数歌を謳った。されど(略)今日に限って天の数歌も、鎮魂も、何の効果も現われなかった。(注・本来は相手が霊縛で動けなくなってしまう)〔第21巻第8章〕

現代は真の宗教無く、また宗教家もない。(略)神代における神の道の宣伝使(今日のいわゆる宗教家)の舎身的活動と、無抵抗主義と忍耐の強き事を思い出せば、現代の宗教家には五大洲中、ただの一人もないと謂っても過言ではあるまいと思う。〔第24巻総説〕

三五教、無抵抗主義の真諦(しんたい)を誤解して、いかなる暴逆にも、無理難題にも屈服し、御思召(おぼしめし)次第だとか、ごもっとも千万だとか言って、極端な無抵抗主義を標榜するのも一つは考へものだ。〔第28巻跋〕

幼年の頃より無抵抗主義の三五教の道を聞きながら、神の大御心を忘却し、暴に対するに暴をもってし、悪魔の憑依せる竜雲(注・悪党の名)を討伐せんとしたる吾が心の愚かさよ、〔第36巻第13章〕

(牛公が)犬のように片足をピンと上げて、無作法にもジョウジョウとやりかけた。数多の参詣者はびっくりして、残らず外に逃げ出してしまった。喜楽(注・王仁三郎のこと)は神界修業の時から、三五教の無抵抗主義を聞いて居たから、素知らぬ顔して彼がなすまま放任して居た。牛公はますます図にのって、終いには黒い尻をひきまくり、喜楽の鼻の前でプンと一発嗅がし『アハヽヽヽ』と笑いながらサッサと帰って行った。〔第37巻第11章〕

ウラル教は理智を主とし、バラモン教は理性を主とする教だ。それだからどうしても一般人を救う事は出来ないのだ。三五教は感情教であるから、一切万事無抵抗主義を採り、四海同胞博愛慈悲の旗幟(はたじるし)を押し立てて進むのであるから、草の片葉(かきは)に至るまでその徳に懐かぬものはない。〔第40巻第6章〕

(宣伝使の黄金姫のセリフ)コレ、レーブ、お前も無抵抗主義と忍耐と慈悲との三五教へ入ったのだから、今までの恨みはサラリと川へ流し赦してやりなさい〔第40巻第20章〕

先日も三五教の宣伝使、照国別様が数多の人の前で、結構な話をして居られた。その教えを聞いた人間は貴賤老幼の嫌いなく残らず帰順してしまいました。誠一つを立て抜く無抵抗主義の三五の教えは、その伝播力も強く、あたかも燎原(りょうげん)の火の如き勢いでございます〔第41巻第9章〕

あゝ惟神々々 無抵抗主義の御教えに 刃向う敵はあらざらめ(注・刃向かう敵はない、の意)〔第42巻第1章〕

善言美詞の言霊を以て、あらゆる万民を言向和す無抵抗主義の三五教〔第66巻第5章〕

無抵抗主義の三五教に入信した俺だけど、正当防衛は許されてあるから〔第72巻第5章〕

このように「無抵抗主義」は三五教の中心教理と言ってもいいような扱いです。
第28巻跋に誤解例が書いてあったように、悪に屈服するのは無抵抗主義ではありません。
無抵抗主義というのは、究極の抵抗術なのです。

無抵抗主義は、実は極端なる抵抗主義である。打たれても、擲(たた)かれても、黙って隠忍している所に底力のある強い抵抗がある。そしてこの無抵抗の抵抗が遂に最後の勝ちを制するのである。
天理教祖のおみきさん(注・教祖の中山みき)は、牢獄に投ぜらるる事、幾回なるかを知らず、警官の叱責に遇うや、いつでもただ、ハイ、ハイと言うていた。
「ハイ、ハイ、ハイで這い登れ山の上まで」というのが、常に彼女が教え子達に示したモットーであったという事である。〔水鏡「無抵抗主義と抵抗主義」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg002

『なあーんだ、結局、悪に屈服しているんじゃないか』と思う人もいるでしょうけど、それは誤解です。

前回の「一つ島の深雪姫」に出て来た、アマノタヂカラオ(天の手力神)を思い出して下さい。
彼のやり方が無抵抗主義です。
彼は侵略して来た敵(ホヒ軍)に対して無抵抗で、「ハイハイハイ、どうぞお入り下さい」と城の中に入れてしまいました。
しかし敵に屈服したわけではありません。
最後に敵は戦闘意欲がなくなり、和合しています。
これは、究極の安全保障です。
敵を武力で撃退しても、また攻撃して来る可能性があります。暴力で押さえつけても、反抗する可能性があります。相手を暴力で従わせようという方法は、安心できないのです。常に不安や恐怖に悩まされることになります。
究極の安全保障は敵と友達になることです。敵と仲良くなれば、もはや敵ではありません。仲間です。
もちろん三五教ですので、ミロクの世を建設するという観点を持っていなくてはいけません。不良グループにいじめられていたいじめられっ子が安全保障のため不良グループの仲間になって一緒に万引きをするようなことではいけません。仲間になって、その集団を善導するという意志を持たねば世の中は良くなりません。

タヂカラオの例によく現れているように、表面的には無抵抗ですが、実は徹底的に抵抗しているのです。悪党をいかに善導するか。それを極めた業(わざ)が無抵抗主義です。
中山ミキさんの場合も、王仁三郎の発言だけではよく分かりませんが、警察(国家権力)を善導することを目指して「ハイ、ハイ」言ってたのではないでしょうか。
王仁三郎然りです。二度も国家権力に弾圧されましたが、共産党のように国家権力に公然と反抗していたわけではありません。アウトサイダーではなく、社会のド真ん中に入り込み、社会の流れの主導権を握ることで、その流れを変えようとしたのです。

この無抵抗主義をくだけて言うならば、悪い奴に、悪いところを面と向かって非難しても改めないから、とりあえずお友達になって仲良くなって、悪いところを教えてあげる、ということです。
しかし悪党と友達になるには、まず自分の心の中から敵愾心を取り除かなくてはいけません。自分が敵愾心を持っていたら、相手も敵愾心を持ったままです。
この敵愾心をなくすことが「言向け和す」ですが、そうなると「言向け和す」も「無抵抗主義」も同じことだと言ってもいいかも知れません。


ところで無抵抗主義と言ったら、インドのガンジーが説いた「無抵抗主義」が有名です。
しかし王仁三郎が説く無抵抗主義と、ガンジーが説く無抵抗主義は、全く異なるものです。

(続く)