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言向和(40) 自分を虐待した親を許さない

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月04日

前回は、「言向け和す」世界の前の段階として「言向け和せない」世界があるということを書きました。
誰にでも必ずあるとは限りませんが、その世界を通過しなくては、次の世界に進めない人もいるのです。私の場合がまさにそうであったのです。
「言向け和せない」世界では、「言向け和さない」ということをしっかりやらなくてはいけません。その時、その人にとっては、それが必要だからです。

以前に「自分を虐待した親を許す」という話を書きました(第31回)。
今回紹介するのは、それとは真逆のケースです。
「虐待した親を許さない」ことで救われたという話です。

中井宏美・著『あなたの子供を辞めました』(2011年、マガジンハウス)には、親と絶縁することで幸福を手に入れた著者の体験が記されています。

中井さんは幼い頃から母親に虐待されて育ちました。殴られ、罵倒され、自殺しろとまで言われたのです。

しかし、母親に愛されないのは自分が悪いからだと思い込み、悩み、葛藤して、地獄のような日々を過ごしました。

やがて大学に進学し、家を出て、就職しましたが、トラウマはいつまでも彼女を追いかけて来ます。妹に「お母さんを許してあげようよ」と諭されますが、許すことが出来ません。

許すとは、どのような状態なのか。どうすれば許せるのかが私にはよく分からなかった。自分のつらさや怒りを押し殺し、母からの罵倒に耐え続けることが許すということならば、私は程なく死んでしまうだろう。私は許すこともできず、ただ憎むこともできない。許そうとすれば、自分の感情を抑えるつらさに耐えられなくなり、憎もうとすれば罪悪感に苦しめられた。(同書P185)

そんな彼女は「許す」ことではなく、「絶縁する」ことで、苦しみから救われたのでした。

同書で紹介されていますが、「毒親(どくおや)」という俗語があります(ウィキペディア参照)。アメリカの精神医学者スーザン・フォワード氏の著書『毒になる親』(1999年、毎日新聞社)の題名から生まれた言葉です。

毒になる親とは、児童虐待などで毒のような影響を子供に与える親のことで、子供の人生はその毒によって支配され苦しみ続けることになります。『毒になる親』の中でフォワード氏は「必ずしも親を許す必要はない」と述べています。

…長い年月をかけて「許す」という概念について綿密に研究してきた。そして次第に、「許さないといけないから許す」という考えは、傷ついた心の回復には助けにならないばかりか、むしろ妨げになっているのではないかと思うようになった。〔『毒になる親』P191〕

…私はけっして「親を許すな」と言っているのではない。本当に許すことができるのなら、それはかまわない。だがそれは、「心の大掃除」という長い道のりを経て、すべての整理がついたうえで、最後の結論としてそうなるのでなくてはならないということなのである。〔同P196〕

…私は長年にわたって多くの被害者をカウンセリングし、観察してきたが、「毒になる親」の支配から自己を解放した者は、必ずしも親を許さなくても心の健康と平和を取り戻すことができている。〔同P197〕

親と絶縁することによって救われた、というのは、親子関係ではなく、夫婦関係に置き換えると分かりやすいかも知れません。
夫婦仲がこじれたとします。二人の関係を修復するのが理想的かも知れませんが、いっそのこと離婚して別々の道を歩んだ方が、二人にとって幸せである場合もあります。
親子関係も同様で、修復不可能なら絶縁して、親と無関係に生きて行けばいいのです。

これは私にとっても、とても痛い話です。なぜならまさにそういう過去を経験しているからです。
前回少し書きましたが、私は自分自身の性格がとても嫌いでした。当時はとても内向的で人付き合いが苦手で友達が一人もいないような孤独な人間だったのです。そしてそういう性格であることを親のせいにして、それで親を憎んだのです。
(注・親の名誉のために書いておきますが、私は決して親に虐待されていたわけではないのでご注意を。私の親は世間一般的に見て決して恥ずかしくない、むしろ立派な親だと思います。しかし子供は世間を知らないので、自分の願望だけで善悪を判断してしまうのです。まして、内に引き籠もってしまうような性格だったのでなおさらです。要するに八つ当たりで憎んだのです)

詳細はここには書きませんが、私も親と「絶縁」をしました。親に対する、静かな、そして最大の復讐が「絶縁」だったのです。
『毒になる親』の引用文に「心の大掃除」という言葉が出て来ましたが、まさにその心の大掃除を二十歳頃から始めて、心理学とか精神世界とか宗教を学び、そして王仁三郎に出会い、4~5年後には親を憎む気持ちが無くなって行きました。

しかし親を憎んでいたときに「親を許しなさい」と言われても、絶対に無理だったと思います。
理性では許したとしても、腹の中の怒りは収まらなかったことでしょう。

イエス・キリストは「汝の敵を愛しなさい」と説きましたが、敵の罪を許し、愛することが理想だとしても、それができるようになるには、まず徹底的に敵を憎むことが必要な場合もあるのです。

それは、傷ついた自尊心を回復するためです。心のトラウマが癒されなくては、敵を許し、愛することは難しいのかも知れません。

タクシードライバーの例(第30回)で、客のCさんも、自分に重傷を負わせたドライバーのBさんを初めは憎悪していました。しかしBさんが真摯に謝る態度を見て、次第に心が癒されて行き、Bさんの罪を許すことができたのだと思います。

フォワード氏は「必ずしも親を許さなくても心の健康と平和を取り戻すことができている」と言っていますが、しかしそれはあくまでもその人一人だけを見れば、それでもOKだということに過ぎないでしょう。
人間は一人で生きているわけではありません。社会生活をする生き物です。「絶縁」は社会の有機的な結びつきを破壊する行為です。長期的に見ればいろいろな不都合が発生します。
あくまでも、その人が心の健康を取り戻すための一時的な行為であるべきです。やがて時期が来たならば、親を許すことが出来るようになるのが、目指すべき世界です。

『あなたの子供を辞めました』の中井氏も、今はそれが必要だからそうしているのであって、永遠にそのままでよいはずがありません。
しかし人の人生は短いです。わずか数十年の人生の中で、その日その時は訪れないかも知れません。
心残りなく死ぬには、やはり許すことが必要なのではないのでしょうか。

そして、人を許さないと、許されていない人もまた救われません。
社会(世の中)というものを考える場合には、自分のことだけでなく、相手のことも考えなくてはいけません。
しかし相手のことを考えることができるようになるには、まず自分自身が救われねばなりません。
そのためのプロセスとして「人を許さない」という逆説的な行為しなくてはいけない場合があるわけです。

「人を許す」ことができるようになるためには「人を許さない」ことが必要な場合もあるのですから、やみくもに「人を愛しなさい」とか「罪を許しなさい」とか「悪を言向け和しなさい」とか言ってみても、それが伝わらない人もいるわけです。

王仁三郎は「神は順序だ」と言っていますが、まさに順序です。必要なプロセスを省いて次のステージには進めないのです。
世界を言向け和して行くには、言向け和せない時代を経なくては行けない場合があるということです。
なかなか世界は一筋縄では進んで行かないようです。


この文章は過去に次のところへ掲載した文章に加筆訂正したものです。
電子書籍『言向け和す ~戦わずに世の中を良くする方法』(2015年12月)