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言向和(26) 慈悲とミロクと和とアガペー

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月17日

「言向け和す(ことむけやはす)」は古事記に出て来る古い大和言葉ですが、しかしその思想・概念は決して日本にだけあるのではありません。
前回紹介した老子の教えにも、それは見てとれます。

イエス・キリストの「汝の敵を愛しなさい」という教えも「言向け和す」です。
その言葉はいわゆる「山上の垂訓」に出て来ます。イエス・キリストが山の上で弟子たちや群衆に教えを説いた場面です。

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人達でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
〔マタイによる福音書 第5章第43~48節(新共同訳聖書)〕

最初の「あなたがたも聞いているとおり」というのは「世間一般で言われている」という意味です。
たしかに世間一般では「敵を憎め」と教えていますね。マスコミの論調は憎悪や敵愾心を煽ってばかりだし、テレビドラマや映画も「倍返し」の『半沢直樹』だとか、ゾンビ映画・戦争映画のように復讐心や恐怖心を煽るものが多く作られます。正義を名分にした暴力を肯定しているのです。
それで「隣人を愛しなさい」と愛国心・同胞愛を掻き立てられたら、そりゃあ、○○ファーストになるのも当然です。世間一般が説いている教えがすでに国粋・排外主義であるわけです。

そんな人並みのことをしたって、世の中は何も良くならないよ、とイエス・キリストは説くのです。
天の父(神)は、善人・悪人、敵・味方の区別なく愛を与えて下さっている。
その神の大御心を心として、敵を愛するように努めなさい、というのです。

敵を味方(隣人)と同じように愛したら、どうなるでしょうか?
もはや敵ではありません。味方です。仲間です。
これは「言向け和す」と一緒です。

「汝の敵を愛しなさい」(敵愛)というのは「言向け和す」なのです。

   ○   ○   ○

ここで一つ注意点があります。

「人を愛する」という場合に一番多く使われるのは、「恋人を愛する」とか「夫や妻を愛する」という文脈で使われると思いますが、異性を愛するのと同じように、汝の敵を愛せますか?

そりゃ無理です。

それで「敵愛なんてただの理想だ」ってことで、結局、敵憎になってしまうのです。

愛についてもう少し深く考えねばなりません。
そもそも日本語の「愛」という言葉にはいろいろな意味が含まれています。
異性愛も、神の愛も、みな「愛」という言葉で一緒になっています。

もともと「愛」という言葉は、ドロドロとした感情を指していました。執着・欲望です。
『広辞苑』で「愛」を引くと、次のように出ています。

①親兄弟のいつくしみ合う心。広く、人間や生物への思いやり。万葉集五「―は子に過ぎたりといふこと無し」。「愛情・博愛・人類愛」
②男女間の、相手を慕う情。恋。「恋愛・求愛」
③かわいがること。大切にすること。伽、七草草子「己より幼きをばいとほしみ、―をなし」。「愛護・寵愛」
④このむこと。めでること。醒睡笑「慈照院殿、―に思し召さるる壺あり」。「愛好・愛唱」
⑤愛敬(あいきよう)。愛想(あいそ)。好色二代男「まねけばうなづく、笑へば―をなし」
⑥おしむこと。「愛惜・割愛」
⑦〔仏〕愛欲。愛着(あいじやく)。渇愛。強い欲望。十二因縁では第八支に位置づけられ、迷いの根源として否定的にみられる。今昔物語集二「その形、端正なるを見て、忽ちに―の心をおこして妻(め)とせんと思ひて」
⑧キリスト教で、神が、自らを犠牲にして、人間をあまねく限りなくいつくしむこと。→アガペー。
⑨愛蘭(アイルランド)の略。
〔広辞苑〕

この7番目の意味が、もともとの「愛」です。
愛欲、愛着、渇愛です。
男女の性愛です。

学研の『漢字源』で「愛」の解字(かいじ…漢字の成り立ち。字形の分析)を見ると、
「牙」(人が胸を詰まらせて後ろにのけぞったさま)+
「夂」(足をひきずる)+
「心」
の三つの形から成り立っており、総じて「心がせつなく詰まって、足もそぞろに進まないさま」と出ています。

要するに、好きな人を想って胸がキュンとなり、目が宙を漂ってフラフラと歩いている姿が「愛」という漢字なのです。

このような感情はギリシャ語で言うと「エロス」です。

それに対して「アガペー」が神の愛を指す言葉です。

古代ギリシャ語では愛を表す言葉が4つあるそうです。(参考:ウィキペディア、「真の愛について」)

エロス … 性愛、夫婦愛
ストルゲー … 家族愛、肉親愛
フィリア … 隣人愛、友愛
アガペー … 自己犠牲的な愛、神の愛

日本では、アガペー的なものは「慈悲」という言葉で表現していました。
細かい学問的な見方をすれば、アガペーと慈悲は少々異なる概念だと思いますが、実践的な観点で見ればどちらも一緒です。「今のこの気持ちは仏の慈悲、こちらの気持ちは神の愛」な~んて、いちいち区別がつくものではありませんし、また区別する必要もありません。どちらも同じです。

さて、もともとエロス的意味合いであった「愛」ですが、キリスト教が日本に伝来して、アガペーを「愛」と翻訳してしまったので、「愛」がおかしくなってしまったのです。

エロスもアガペーもみな「愛」という言葉で一緒くたになってしまったので、ある意味ではそれが原因で、日本人の愛という感情が未分化なものになってしまったのかも知れません。

そこで王仁三郎は言葉を整理し、概念を区別したのです。

神の愛、広く大きな愛が「愛善」です。
小さな、利己的な愛が「愛悪」です。

自分しか愛さないのは愛悪ですが、しかし自分を愛することも大切です。
自分も神の子であり、肉体は神様からの預かりものです。自分を愛することはとても大切です。
しかし自分しか愛さないのが愛悪になるのです。

だから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とイエス・キリストは説くのです。
それは愛善です。
アガペーは愛善です。
エロスは・・・男女二人だけの愛ですが、自分たちだけしか愛さないのであれば愛悪です。
ストルゲーもフィリアも同様です。家族を愛し、同胞を愛するのは大切ですが、家族しか愛さず・同胞しか愛さず、排他的になると、愛悪です。

霊界物語から愛善と愛悪について引用します。

愛の善とは即ち霊主体従、神より出でたる愛であり、愛悪とは体主霊従と云って、自然界における自愛または世間愛を言うのである。

今、口述者が述ぶる世間愛とは、決して世の中のいわゆる博愛や慈善的救済を言うのではない。己が種族を愛し、あるいは郷里を愛し、国土を愛する為に他を虐げ、あるいは亡ぼして自己団体の安全を守る偏狭的愛を指したのである。
〔第47巻第9章「愛と信」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm4709#a009

無始無終の宇宙間において、最も強く美(うるわ)しきものは愛の発動なり。(略)

しかして、愛には善あり、悪あり、大あり、小あり。神の愛は愛善にして、世間一切の愛は愛悪なり。神の愛は大愛にして世間の愛は小愛なり。わが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国土を愛するはいわゆる自己愛にして、神の大愛に比して雲泥の相違あり。故に小愛は我情我欲の心を増長せしめ、ついには自己愛のために他人を害し、他家を破り、他郷と争い、他の国と戦い、ついに彼我(ひが)共に惨禍の洗礼を受くるに至る。

また神の愛は大愛なれば、宇宙一切万有に普遍して毫(ごう)も依怙(えこ)の沙汰なし(注・偏向しないという意)。
世間の愛は他を顧みず、ひたすらにわが身を愛し、わが家を愛し、わが郷土を愛し、わが国家を愛するが故に、他よりもし不利益を加えらるると見る時は、たちまち立って反抗し争闘し、身を破り家を破り国家を破るに至る。恐るべきは愛の情動の度合なり。
〔第74巻第14章「真心の曇らひ」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm7414

世界の一部──家族とか、郷土とか、国とか、そういう一部分しか愛さない小さな愛だと、他から危害が加わるとたちまち排他的、攻撃的になってしまうと言うのです。
だから世界全部を愛しなさい、大きな愛、神の愛を持ちなさい、というわけです。

イエス・キリストの敵愛の話に戻りますが、「汝の敵を愛しなさい」という場合の「愛」は、アガペーです。愛善です。
異性を愛する場合の愛ではなく、もっと広く大きな愛です。
友愛、博愛と言ってもいいと思います。

小さな愛で見たら「汝の敵を愛しなさい」という教えは理解できないことでしょう。「そんなもん愛せるか」と。
大きな愛でもって見たときに、それが理解できるのです。

敵を言向け和すには、自分の魂の中にある、神の愛(愛善)を大きく大きく育てて行く必要があります。

   ○   ○   ○

ところでキリスト教が日本に伝来したのは、一般には戦国時代の1549年とされています。イエズス会のフランシスコ・ザビエルが鹿児島で宣教を開始したのです。

しかしザビエルよりはるか昔、7世紀頃にすでに日本にキリスト教が伝わっていた、という説があります。
キリスト教の「ネストリウス派」という一派が、5世紀に、主流派から「異端」(邪教)の烙印を押されて排斥され、それが7世紀に中国に伝わり「景教」という名で呼ばれていたことが、歴史的に確認されています。
その景教が日本にもやって来たという説があるのです。(詳細はウィキペディアの「ネストリウス派」を見て下さい)

今、私たちが「キリスト教」だと思っているキリスト教は、主に欧州で発達したキリスト教です。エルサレムから西へ行った人たちです。
しかし、エルサレムから東へ行った人たちもいるのです。
景教以前にも、キリスト教が中国や日本に伝来していたかも知れません。
イエス・キリストの十二使徒の一人、トマスが、インドで宣教したという伝説があります。
そしてそのトマスが、禅の達磨法師になった、という説もあります。
古代イスラエルの失われた十支族の足跡を追って、中国や日本にまで渡った人もいるかも知れません。
大陸との交通ははるか古代からあったのですから、景教以前にもキリスト教徒が渡来していたとしても何も不思議ではありません。

歴史の真偽は定かではありませんが、ある人がおもしろいことを言っていました。

古代(それがいつの時代か分かりませんが)、日本に伝わったキリスト教が、アガペーを「和」と翻訳したのではないか、というのです。

なるほど。
それはおもしろい。

汝の敵を愛して行ったら、世界はどうなるでしょうか?
もはや敵はいなくなり、みんな仲間となります。
それは大きな「和」の世界です。
大和です。

私たち日本人は「和」を志向する民族性を持っています。
今さら比較文化論を論じるまでもなく、他の諸民族よりも「和」が好きなのが日本人です。
それは皇祖の「言向け和せ」という大命に由来するものなのか、はたまた聖徳太子の十七条憲法の筆頭に掲げられた「和を以て貴しと為し」に由来するものなのか、あるいはまたこの自然豊かな気候風土が自らそのような民族性を育んだのか、よく分かりませんが、ともかく「和」を旨とする民族です。

「敵を愛しなさい」なんて難しいことを言われなくても、日本人はごく自然に、敵愛を実践しているのかも知れませんよ。

アガペーを「和」と訳したという説は、新しい見地だと思います。

その「和」を最上級の価値と位置づけた聖徳太子は、実はペルシャ人だったという説がありますし、ひょっとしたらキリスト教徒だったのかも知れません。
というか、聖徳太子の伝説はイエス・キリストの伝説が変化したもの、という説もあります。聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ)とも呼びますが、厩戸とは厩舎(きゅうしゃ…牛馬の小屋)の戸ということです。それとイエス・キリストは馬小屋で生まれたという伝説とが繋がって、聖徳太子イエス・キリスト説が出るわけです。
その聖徳太子が仏教を積極的に導入したというのは少々解せないですが・・・(^_^;

果たして古代にアガペーを「和」と訳したのかどうかは定かではありませんが、汝の敵を愛して行くことが「言向け和す」であるということは、断定できます。

   ○   ○   ○

汝の敵を愛して行った世界が「ミロクの世」です。

王仁三郎は漢数字の「五六七」を「みろく」と読ませましたが、これは、仏教の弥勒信仰──釈迦入滅後、56億7千万年後に弥勒菩薩が地上に現れて人類を救済するという信仰に由来しています。

この「みろく(弥勒)」という言葉は、サンスクリット語(梵語)では Maitreya マイトレーヤと言います。音訳だと「弥勒」に、意訳だと「慈氏」になります。

また、「慈悲」の「慈」は Maitreya マイトレーヤで、「悲」はkaruna カルナーです。

そして Maitreya マイトレーヤの語源である maitri マイトリー とはブリタニカ国際大百科事典によると
あらゆる人に平等に注がれる最高の友情,友愛
という意味です。(コトバンク参照)

なるほど。
博愛、万有愛です。
つまりマイトレーヤ・ワールド=ミロクの世とは、世界中の人々が友情で結ばれた世界──世界中の人たちがみな友達になった世界のことを指すのです。

それは大きな「和」の世界です。

大和とは、汝の敵を愛して行くことであり、ミロクの世のことなのです。

アガペーも、慈悲も、和も、弥勒も、みな同じことを指し示していたわけです。

キリスト教が指し示した世界も、仏教が指し示した世界も、みな大和の地で結実していたのです。

──いや、まだ結実はしていません。
地上を総て、大和にしなくては結実したとは言えません。

地上を一つの大和の国にすること、それが「言向け和す」です。

(続く)