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言向和(23) ホモサピエンスから進化するための「第三の道」

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月14日

霊主体従篇(第1~12巻)で「言向け和す」に関する特筆したいエピソードとして、次の4つを取り上げました。(詳細は第17回を参照のこと)

1) 天使長が「破軍の剣」を使って更迭されたエピソード(第3巻)
2) 国祖が「真澄の大鏡」と自分の後頭部を見せたエピソード(第4巻)
3) 北光天使が小便を引っ掛けられたエピソード(第6巻)
4) 一つ島の深雪姫のエピソード(第12巻)

もちろんこれ以外にも「言向け和す」に関するエピソードは多数ありますが、上の4つは私が特に深く考えさせられたエピソードです。

一つ島の深雪姫のエピソード(第12巻第22章~24章)よりももう少し前の方に、悪を言向け和すための宣伝使の心構えとも言えることが書いてあります。今回はそれを紹介します。

「三光(さんこう)の宣伝使」と行平別(ゆきひらわけ)の4人の会話の中に出て来ます。
三光の宣伝使というのは、高光彦(たかてるひこ)、玉光彦(たまてるひこ)、国光彦(くにてるひこ)の三兄弟のことです。名前にみな「光」がつくので「三光(さんこう)」と呼ばれています。
行平別は最初は初公(はつこう)という仮名で出て来ます。

ここでいきなり余談ですが「王仁DB」に「霊界物語ミニ辞典」というのがあるんですが、ご存知でしょうか。霊主体従編だけですが、人名・地名等の用語の簡単な説明がしてあります。人名はここです。分からなかったらそこを読んで下さい。

話を戻します。
この4人の宣伝使が、イホの国(エジプト)の白瀬川(しらせがわ)の上流にある6つの滝に棲む大蛇(おろち)を言向け和しに向かいました。
途中まで、他に2人(蚊取別、祝姫)が同道していましたが、秋月の滝を片付けた後、2人は別れて、残り4人に。
そして次に深雪の滝に向かう際に、4人の間に次のような会話が交わされています。
少々長いですが、引用します。〔第12巻第15章「宣直し」〕

高光彦『(略)サアこれから我々も知らず知らずの慢心を省みて本当の神心(かみごころ)にならねば、五つの滝の曲神(まがかみ)を征服どころかかえって征服されてしまわねばならぬ。(略)』

玉光彦『そうですナ、各自に腹帯を締めてかからねばなりませぬ。人は背水の陣を張らねば何事も成功しませぬ。勇断果決、獅子奮迅の勢いをもって、まず自分の霊に憑依せる悪魔を追い出し、清浄潔白の霊になった上、悪魔を征服する資格が初めて出来るのだ。大瀑布(だいばくふ…滝のこと)に悪魔がいると思えば、豈図(あにはか)らんや、自分の心の奥に白瀬川の大瀑布が懸かり、そこに大蛇の悪魔が巣ぐうているのだ。身外の敵は容易に征服出来るが、心内の敵は退治が出来にくい。まず深雪の滝の悪魔に突撃するまでに、各自の悪魔を征服し、あるいは帰順せしめて後(のち)にかかりましょうか』

高光彦『アーそうだ。悪魔に対(むか)うのは、ちょうど的(まと)に向かって弓を射るようなものだ。弓を射る者はその身を正しうして、一分一厘の隙間もなく、阿吽(あうん)の呼吸の合った時始めて、弓を満月の如くに引き絞り、私(わたくし)の心を加えず、秋の木の葉の風もなきに、自然に落つるが如き無我無心の境に入(い)りて、自然に矢が弦(つる)を離れる。さすればその矢は的(まと)の中心に当たるようなものだ。まず己(おのれ)の霊を正しうするのが肝腎だ』

国光彦『敵は本能寺にあり、我が身の敵は我が心に潜む。心の敵を滅ぼせば、いかに常暗(とこやみ)の世の中とはいえ、我に取りては悪魔も大蛇もナイ(無い)ル河、尊き神代を深雪(見ゆ き)の滝、速河(はやかわ)の瀬に失(さすら)い流す、神司(かむつかさ)麻柱(あなない)の宣伝使、深雪の滝に向かうに先立ちて、まず自己の霊の洗濯にかかりましょう』

行平別『アヽ、万寿山の御兄弟(三光の宣伝使のこと)の深刻なるお話によりて、私の心の岩戸も、サラリと開けました。アレ御覧なさいませ、天津御空(あまつみそら)には喜悦の太陽晃々(こうこう)として輝き始めました。これ果たして何の祥瑞でしょうか』

高光彦『世の中に鬼も大蛇も悪魔も有るものでない、あるように見えるのだ。各自(めいめい)の心に誠の日月(じつげつ)が照り輝き、神の慈愛の心の鏡に映ったならば、天地清明、安養浄土、サアサア皆さま、打ち揃うて天津祝詞を奏上致しましょう』

 四人はここに端坐し、天津祝詞を奏上し終わって宣伝歌を高唱する。

『神が表に現われて  善と悪とを立別ける
 善悪不二の神の道  善を思えば善となり
 悪を思えば悪となる(以下省略)』

と歌い終わるや、百日百夜、暗黒に鎖ざされたる天地は、ここに豁然(かつぜん)として夜の明けたる如く、日は晃々として天に輝き、今まで騒然たる瀑布の響きはピタリと止まり、虎、狼、獅子、大蛇、鬼の叫びも瞬くうち、若葉を渡る春風の響きとこそはなりにける。
〔第12巻第15章「宣直し」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1215#a157

なるほど。
「身外の敵は容易に征服出来るが、心内の敵は退治が出来にくい」
「我が身の敵は我が心に潜む」
「世の中に鬼も大蛇も悪魔も有るものでない、あるように見えるのだ」

他人を言向け和すには、まずは自分の中の悪魔(副守護神)を言向け和さねばならない、ということです。
世間の荒波の中で生きていると、腹が立つことが多々ありますが、腹を立てているのは自分の副守護神です。
腹を立てたまま相手と対峙しても、まあ、物別れに終わりますね。相手を懲らしめてやろう、仕返ししてやろう、屈服してやろうという気持ちがあるのですから、当たり前です。言向け和すなんてほど遠い話です。

自分の外界に起きる出来事は自分の内界の投影です。霊界と現界が合わせ鏡であるように、インナーワールドとアウターワールドは表裏一体です。
自分が思った通りに、外の世界が見えて来ます。

身近な例で考えてみても──嫌いな人を『嫌な奴』と思って見ていたら嫌な奴にしか見えませんが、どこか一つでも好きな所を見出して付き合えば、だんだんと情が湧いて来て好感を持てるようになって行きます。
その人自身は何も変わっていないのに、自分の気持ちの持ち方一つで、世界が変わって見えるのです。

引用文の最後のところで、宣伝歌を歌い終わると、暗闇だった天地が晴れ渡り、瀑布の響きも猛獣の叫びもたちまち春風の響きとなりにけり云々と出て来ましたが、霊界物語にはこのパターンがあちこちに出て来ます。

古来から宗教がよく言うように、地上天国を創るには、まずは自分の心の中に天国を樹立しなくてはいけないのです。

しかし、物語なおので情緒的・抽象的に書いてありますが、現実のこの物質界では、心を変化させたからといって、そこまでダイナミックに外界が変化するわけではありません。

たしかに外の世界がキラキラと輝いて見えるようになるのは事実だし、長期的に見たら周りで起きる現象が確実に変わって来ます。
しかし今すぐ直ちに変わるわけではありません。

たとえば、街を歩いているとき、ナイフを振り回す通り魔に出会ったとします。
「世の中に鬼も大蛇も悪魔も有るものでない、あるように見えるのだ」と思ったところで、その通り魔が消えていなくなるわけではありません。霊界物語は物語なので、消えていなくなりますが、現実の物質界では、突然消えていなくなることはないのです。

消えていなくなることはありませんが、見え方は確実に違って見えます。
ナイフを振り回す通り魔を、悪魔だと思って見ていたら、人の道を外れたただの凶悪犯にしか見えません。
しかし、鬼も悪魔もいないのだと思えば・・・そこには何かに苦しんで暴れている人がいるだけです。
およそ犯罪者というのは、自分の中から湧き上がる衝動をどう制御していいのか分からずに苦しんで困っている人です。
お金が欲しい、女が欲しい、あいつが憎い、悔しい、そういう衝動を制御できず、結果として、他人の嫌がることをしてしまうのです。

人は生まれながらにして不平等です。先天的あるいは後天的な理由で、衝動をコントロール出来ない人がいても、仕方のないことです。

苦しみからどう脱け出したらいいのか分からずに、欲望の奴隷となったり、あるいは憎悪を爆発させたりしている人たちは、言向け和すべき人たちです。

彼らを鬼か悪魔かと思ったら・・・逃げるしかないですね。
あるいは、勇気のある人なら戦うことでしょう。
逃げるか、戦うか、どちらかです。

ですが、それは動物と同じです。
動物だって、敵と出会ったら、逃げるか戦うか、どちらかです。
犬は敵と出会ったらどうしますか?
とりあえずワンワンと鳴いて戦います。
しかし自分より強いと思ったら、キャイーンと鳴いて尻尾を巻いて逃げます。
逃げるか戦うかのどちらかなのです。

しかし人間には第三の道があります。
それが「言向け和す」です。

逃げるのでもなく戦うのでもなく、言向け和すのです。

王仁三郎は、神の霊が止(とど)まるところが霊止(ひと、人)であると説きました。
人の肉体だけなら、動物と同じです。
そこに神の霊が入って、霊止となるのです。

逃げるか戦うかだけなら動物と同じです。
地球が猿の惑星から進化するには、「言向け和す」というスキルを手に入れることが必要です。
宣伝使の旅は、その進化するための旅だと言えるでしょう。

(続く)