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言向和(16) 悪の巨頭・大国姫と大国彦のあっけない改心

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年08月01日

第10巻第24章の章題は「言向和(ことむけやはし)」です。
霊界物語の章題や篇題で「言向け和す」が入っているのは、この章だけです。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1024

ですから、よほど「言向け和す」に関する重大なことが書いてあるのだろう、と思いきや・・・

この章は「黄泉比良坂(よもつひらさか)の戦い」の終盤部で、邪神の大国姫(おおくにひめ…大自在天・大国彦の妻)が言向け和される場面です。
どうやって言向け和されるのかと言うと・・・宣伝歌によって言向け和されるパターンです。
イザナミの大神に偽装した大国姫は、黄泉比良坂で、三五教の宣伝使・正鹿山津見(まさかやまづみ)が歌う宣伝歌によって言向け和されると、改心の歌を歌い返し、黄泉の大神となって幽政を支配することを誓いました。

それまで双方戦っていたのに、わずか600文字(七五調なので1節が12文字×50節=600文字)の宣伝歌で言向け和してしまうなんて、とてつもない感化力です。
ですが、意外とあっけない改心で、拍子抜けします。
見方を変えるとおとぎ話的な話で、ちょっと付いて行けないですが、以前に書いたように(第11回参照)、宣伝歌で言向け和すというのは、どういうことなのかよく解明されていません。

ずっと前に、宣伝歌の歌詞に秘密があるのかなと思って、悪党が言向け和された場面で歌われた宣伝歌を集めて、歌詞を分析してみたことがあります。
しかし特に特徴は発見できませんでした。
やはり、以前(第11回)書いたように、歌そのものというよりも、「善言美詞(ぜんげんびし)の言霊」で言向け和すということが重要なのだと思います。

善言美詞の言霊というのは、美しい言葉、という意味ではありません。美しい想念、ということです。
美しい言葉というのは、人や地域によってかなり違って来ます。自分が美しい言葉を使ったと思っていても、相手は必ずしもそう思ってはいないかも知れません。

王仁三郎は「善言美詞は対者(相手)による」と説いています。

 善言美詞は対者による事であって、車夫が同士に対しては車夫の言葉、ちょっと聞いてはなはだ悪言暴語のような言葉でもそれが善言美詞であるし、地位名望のある人達の間にはそれ相当の美しい言葉が交わされねばならぬ。
 「未だ生きてけつかるのか、米が高くて困るぞ、よう」と言うと「やあ、手前(てめい)もまだ生きていたのか」これは私が荷車をひいていた時代に、これらの社会において互いに取り交わさるる言葉であった。労働者達の間の善言美詞である。こうした暴(あら)い言葉の底にひそむ、友を思うの情は、互いに充分に相通じ了解されるのである。
 もしこれらの人が切口上や、丁寧な言葉を使い出したら敵意を含んでいるのである。舌の下には心ありとの神歌の如く、要は心の問題で、敬愛の心から出る言葉は、表現はまずくとも、善言美辞となって表わるるもので、この心なくて美辞を使うと、それは阿諛諂佞(あゆてんねい…人に気に入られるように振る舞うこと)となり、欺言(さげん)、詐語(さご)となる。
〔月鏡「善言美詞は対者による」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=kg324

「なんだ、まだ生きてたのかー」て挨拶する人、いますね。お年寄りなんかにもいます。
言葉だけ聞いていると、とても非道いことを言っているのですが、その心は、「元気そうだな、久しぶりに会えて嬉しいよ」と言っているわけです。それを照れ隠しなのか、一見非道い言葉で言っているのですが、実は共に喜び合っているのです。

私は10代の時からフリーターとして色々な職場を転々として、時にはホームレスまがいの生活をしていたこともありますが、住む社会によって善言美詞の基準は全くまちまちです。荒れた連中だらけの社会で正しい日本語なんて使っていたら「上品ぶるなコノ野郎」とぶん殴られてしまいます。荒れた社会では荒れた言葉が美しい日本語なのです。

「言向け和す」というのは対機説法であって、人によって言葉を変えねばなりません。
そうすると、宣伝歌の歌詞を真似して歌ってみても、たいした効果はないでしょうね。
美しい言葉を使うというよりは、美しい想念を持って言葉を発することが大切だということになります。

ホ・オポノポノで「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」と言葉だけ発していてもたいした効果はないのです。「ありがとう」と言う時には心も「ありがとう」という気持ちで言い、「ごめんなさい」と言う時には「ごめんなさい」という気持ちで言わなくては効果はありません。
口先だけで女の人に「愛しているよ」と言ってもすぐにウソを見抜かれてしまいますね。(^_^;
そういう言葉自体に何か力があるのではなく、そういう気持ちで言葉を発した時に力を持つのです。

ということで、「善言美詞の言霊で言向け和す」というのは、「善い美しい言葉を使う」という意味ではなく、「善い美しい想念を持って言葉を発する」ということだ、というお話しでした。


大国姫が言向け和された第10巻第24章「言向和」の前の章、第23章「神の慈愛」では、大国姫の夫の大国彦(大自在天=常世神王)が言向け和されています。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm1023

こちらは宣伝歌で言向け和されたのではありませんが、これまた不可解な言向け和され方をしています。

邪神軍のアジト・ロッキー城において、日の出神に偽装した邪神の総大将・大国彦を、三五教の宣伝使・淤縢山津見(おどやまづみ)と固山彦(かたやまひこ)の二人が改心させようと追い詰めます。
しかし大国彦は太刀を引き抜いて「都牟刈太刀(つむがりのたち)を味わってみよ!」と阿修羅の荒れ狂うかの勢いで、二人に襲いかかります。
すると二人は応戦するのではなく、一目散に逃げ出してしまうのです。

大国彦は「卑怯未練な奴め、なぜ勝負を致さぬか!」と怒鳴り、後を追います。
淤縢山津見は逃げながら、固山彦に
「至仁至愛の神の心を以て吾はこの場を逃げるなり。神の御子同士傷つけ合うのは、親神に対して申し訳がない。しばらく彼の剣を避けて、あらためて時を窺い、悔い改めさせようと思う」
と言いました。
すると、後を追って来た大国彦は、その話を聞いて、突然「ワッ」と泣き伏してしまうのです。
そして「只今あなたの仁慈に富めるお言葉を聞いて、感涙に咽び、思わず泣きました。私は今までの悪を翻然として悔い改めます。どうぞお赦し下さいませ」と改心を表明するのです。

淤縢山津見は決して大国彦を言向け和そうと思ってそういうことをしゃべったわけではありません。殺し合いになるのを避けるため、とりあえず逃げて、その際に固山彦に話した会話を小耳に挟んで、それで言向け和されたわけです。
何となくしゃべった言葉で、結果的に言向け和すことが出来たのです。
もちろんそれは「神がしゃべらせた」と解することが出来ますが、それにしてもあっけない改心です。
この第10巻の「黄泉比良坂の戦い」は、黄泉島(ムー大陸)を舞台に戦われる正神軍と邪神軍の決戦であり、第7巻から伏線が張られています。
第7~8~9~10巻と、えんえんと引っ張った挙げ句に、悪の総大将が、あっけなく改心してしまうのです。
少々拍子抜けです。

しかし大国彦は邪神の頭領とは言え、もともとは「善神界の尊き神人」〔第2巻総説〕です。悪の程度が低ければ、このくらいのことでも改心するのかも知れません。

悪とは言っても、大別して2通りの悪があります。
たとえば野党やマスコミが与党や政権を悪呼ばわりしますが、その場合の悪というのは、主に思想上の対立です。利権の対立と言ってもいいです。立場が異なることから生じる悪であって、必ずしも与党の連中は「心がねじけている」わけではありません。ねじけ工合は与党も野党も同じだと思います。
それに対して、「心がねじけている」という意味での悪があります。暴力団だとか犯罪常習者のような人はほぼ確実に心がねじけています。霊界物語だと、高姫がそうです。

大自在天・大国彦や、盤古大神・塩長彦は、前者の意味での悪です。悪の勢力の頭領なのです。だからと言って、それほど心がねじけているわけではないのです。
それに対して高姫が悪だというのは、後者の意味での悪です。心がねじけているのです。そのねじけ工合はオニド・サポーターメニューの「高姫入門」を読んでいただくことにして、ともかくねじけにねじけていて、途中で何度か改心するのですが、すぐにまた慢心してどんどん悪化して行くという、なかなか言向け和せない人なのです。

そういうことなので、大国彦や大国姫は、悪の勢力の巨頭であるにもかかわらず、それは表面的な意味での悪であって、内面的にはそれほど悪ではないので、意外とあっけなく改心してしまったのかな・・・と思います。

(続く)