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言向和(6) 東征は征伐ではなく巡教だという説

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月20日

「言向け和す」について言及された本を紹介します。本の全体ではなく、一部の章だけです。

 沖野岩三郎・著『日本建国史考 ─古事記・日本書紀の読み方』恒星社、昭和13年

戦前の本です。この本の第三章が「平定の意味」という題で、「言向け和す」について言及しています。

東征とか平定とかいう言葉が記紀に出てきますが、これは「(天皇軍が先住民を)武力で制圧した」と解釈されていますが、本書の著者は「やむを得ない時は武力を使ったかも知れないが、あくまでも言葉で説いて聞かせることが主であった」と主張しています。

著者はクリスチャンのようです。
 Wikipedia
どういう意図で本書を書いたのかは知りませんが、古代史解釈の一つとして参考になります。

なお、画像化された本を「国立国会図書館デジタルコレクション」で読むことができます。


凡例

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沖野岩三郎・著『日本建国史考 ─古事記・日本書紀の読み方』恒星社、昭和13年

第三 平定の意味

 古事記上巻の天孫降臨の条に、「言依《ことよざし》」と「言趣《ことむけ》」との二つの言葉が連関して書かれている。

此葦原中国者、我御子之所知国、【言依】所賜之国也、故以為於此国道速振荒振国神等之多在、是使何神而将【言趣】。
この葦原中つ国は、我が御子の知らさん国と、言依《ことよざ》したまへる国なり。故にこの国に道速《ちはや》ぶる荒ぶる国つ神どもの多かるを、何れの神をか使はして、言趣《ことむ》けましと、のりたまひき。

 この「言依《ことよざ》す」は、言を寄せ給うことであって、後に言う所の勅命であり、任命にもあたる。今日も勅語を「御言宣《みことのり》」という如く、文字のなき太古に於いては、至尊の御命令は御言葉のみであったのだから、「葦原中つ国は我子の統べ治むる国なり」と、【みことのり】を下し給うたのである。

 「言趣《ことむけ》」は、言葉を向けるのである。「向く」とは「面来《むく》」というような意味で、面と面と相対することである。故に「言趣く」は「言向く」であって、相対して言葉を向けると同時に、相手にも此方へ言葉を向けさせるのである。「言依す」は、上より下へ御言葉が下るだけであるが、「言向く」は、相手の反辞が必要なのである。つまり絶対と相対の相違があるのである。

 天照大神のこの「御言依《おんことよざし》」によって、天の菩比《ほひ》の命が出雲へ行かれた。けれども行ったきりで帰って来ない。次に天若日子を遣わしたが、やっぱり行ったきりである。そこで雉名鳴女《きぎしななきめ》を遣わして、若日子を詰問せしめられたお言葉に
「汝を葦原中つ国に使わした所以は、その国の荒ぶる神たちを、言向け和さんが為なり」と、ある。この御言葉で、言向けの意味が明瞭になる。こちらから相手に説明して、相手を納得させ事を平和におさめるのを、言向け和すというのである。

 高天原族と出雲族と、この二大族の合併問題は実に日本国政上の大問題であった。しかし、高天原から出雲に出向いたのは、建御雷神と天鳥船神の二人だけで、その結果の報告を、「葦原中つ国を言向け和せる状を復奏す」と書いてある。この時の「ことむけやはす」を、漢字で「言向和平」と書いてある。つまり、建御雷神が大国主命に対面して談判し、平和に国を献らしめたのである。無論多少の騒動はあったろうが、言は頗る平和に終結したのであった。ところが日本書紀の神代下の巻で、言向けを「【撥《はら》ひ平《たひら》ぐ】」と書いてある。「駆除平定」とも書いてある。この平定の文字が後世の吾々に、大征伐大戦争を想わしめたのである。それは非常な誤解である。吾等の祖先は、この日本国へ渡来して、先住民族を討ち殺し征伐して統一したのではない。

 高天原族と出雲族とは、さながら二大強国の感があった。のみならず出雲族の方がはるかに勢力が強かったかも知れない。この二大勢力が相拮抗して、戦争したのであったならば、それは大変な騒ぎになったに違いない。けれども、それが極めて円滑に合併統一出来たばかりか、その合併に強く反対した建御名方命が、官幣大社として祀られているのである。今日に至るまで日本国民は先住民族たると否に拘らず、ことごとく一国民として平和に暮しているのは何故であろうか。それはみんな高天原族の言向によって和された民族だからである。そこに本当の日本精神があるのである。

 高天原族には、強い信仰があった。炫《かがや》く日の如き神徳を供え給うところの唯一絶対神、天之御中主神を信じていた。その神徳によって、万物ことごとく生成化育すると信じていた。だからこの神徳を信ずることが人間の全生活であるという事をもって国家統治の大本義としていた。その大本義を伝え教えられ、その教えを信じて、神を崇むる者が、即我日本民族となったのであって、それを拒んだ先住民族は、当時の「あいぬ」族のように、北へ北へ逃避しあるいは海を越えて、遠くへ去ってしまったのであろう。つまり、高天原族は、吾が日本国を統べ治むるために、先住民族を、言向け和し給うたのであって、決して討伐征服なされたのではない。その証拠は、天孫瓊瓊杵命が御降臨なさる時随臣として一緒においでになったのは、

天児屋命《あめのこやねのみこと》。中臣家の祖先で、歴世祭祀を司り、占卜の事に預り、太祝詞《ふとのりと》を奏する役。
布刀玉命《ふとたまのみこと》。忌部家の祖先で、中臣家と同じく歴世祭祀を司り、神に太玉串《ふとたまぐし》(手向け串)を捧ぐる役。
宇受売命《うずめのみこと》。(鈿女《うずめ》)猿女君の祖先で、死者復活の呪術などをした、巫《みこ》の如き役をする女神。
伊斯許理度売命《いしこりどめのみこと》。鏡作部の祖先で、八咫鏡を作った神、鏡は祭神に、必ず無くてはならぬもの。
玉《たま》の祖《や》の命。祭神の時に用いる玉を作る神。

 右の五神である。この五神がそれぞれ一族郎党を率いて、天孫に扈従したのである。武器を携え多数の兵士を率いて、葦原中つ国を討伐するために降臨されたのではないことは、五臣がことごとく神を祀り崇める事に従事する人たちであったことで証明出来る。だから御降臨の途中、とても恐ろしい容貌をした男が途《みち》に突っ立っていても、直ちにこれに矢を向けようとも、刀を抜いて戦の用意をなさろうともなさらず、神事に預る鈿女命が出て行って、言も無く嚮導役を申しつけたのである。その鈿女命、伊牟迦布神《いむかうかみ》、面勝神といったのは、いろいろの解釈もあろうが、神の命を負う身であるから、誰をも恐れず憚らず、堂々「相向《いむか》い」て談判し、少しもひるまない「強気の神」ということにすれば間違いはない。天の岩戸隠れの時に、一番の働きてであった鈿女命の勇気は神を信じている勇気で、狂暴な勇気ではないのである。

 天孫に随って降臨した五伴《いつとも》の緒《お》が、かくの如く神事に従事する神たちばかりであった事を見ても平定が、「言向け和す」であって、征伐でない事が明かである。

 天に感謝し、天神の得に従うことが、日本国に忠良なる所以であるとして、いたる所に天神を祀り、その祭祀の長となる人が、その地の長となって、民を治めたのである。では、伊耶那岐、伊耶那美二尊の時代から矛を持っていられるのは何故かという疑問が出るであろう。無論太古の人は武器が必要であったに相違ない。寸時も身を離すべからざる物であったろう。何となればいたる所に猛獣毒蛇が居、凶暴な者がいて反抗したであろうから、矛、弓矢、太刀は、みんながみんな護身用として所持していたに相違ない。

八隅《やすみ》知し我が大君の
あしたには取り撫でたまひ
夕には寄《いよ》せ立ててし
御執《みとら》しの梓弓の鳴弭《ながはず》の音すなり
朝猟《あさかり》に今立たすらし
夕猟《ゆふかり》に今立たすらし
御執《みとら》しの梓の弓の鳴弭《ながはず》の音すなり

 万葉集一の三にあるこの歌を見る時、昔の人が弓矢に対する感情に愛着のあることがわかる。これは猛獣を防ぎ反抗者を担いで身を守ってくれ、狩猟に出て食物を与えてくれた武器に対する感謝の現れである。

 日本書紀を見ると、崇神天皇の九年四月に、赤き盾赤き矛を墨坂の神(大和国宇陀郡榛原村字萩原)に献じ、黒き盾と矛とを大坂の神(大和北葛城郡二上村牛頭社)に献じ給うたのは、幣帛を献ずる意である。【にぎて】、【ぬさ】の代用として兵器を捧げたのである。

 垂仁天皇の二十七年八月に、「祠官をして兵器を卜して神幣とし、弓矢及び横刀《たち》を諸神の社に納めしむ。けだし神祇を祭る、始めてこの時に興るなり」云々とある。これは生きていますところの神に御衣《みぞ》を献り、食物を献ると同時に、武器を献ったので、衣食と共に武器を必要なものとしたのである。太刀のことを、昔は大葉苅と言っている。これを大刃鋭《おおばどが》りだというように説明する人もあるが、私は簡単に草叢の大きな枝葉を刈り取ったから、大葉苅りというのだと解釈している。

 吾々の祖先たちが、この国を拓く時、進路の邪魔になる草木を刈り取り、あるいは開墾の際に、先ず草を薙ぎ去る用に用いたのだと解すれば、草薙剣の名も、一層明瞭になる。草薙の剣、大葉苅の剣は、軍和《いくさなぎ》の剣であって、吾が日本開国のさきがけなのである。

 吾々の祖先が、木を斫《き》り草を苅り土を掘り、猛獣を追い鷙鳥《しちょう》[#性質の荒々しい鳥。]の害を防ぎながら、この国土を御開拓なされた時、武器が吾等の祖先を守ったことは想像するに余りがある。その護られた武器に対しては自然と愛情が湧く。

 弦を張った弓を六挺も並べて、琴の代用にして掻き鳴らしながら、想い出の楽しい歌を歌ったり、いつでも矢を番《つが》うべく弦を張って、それを鳴らしながら夜の禁廷を警衛したり、古代人と武器は今日の吾々が想像出来ないほどの愛情をもつようになったので、その武器を神社に献げたのであろう。それをもって直ちに血腥い戦争のみを連想するのは後代の思想であらねばならない。

 神武天皇が、高千穂の宮から、大和の橿原へお出でになったのを「御東征」というから、直ぐ大軍を率いて御出発なされたように思うのは大きな誤りである。古事記には「坐何地者平聞看天下之政」とある。いづちに坐さば平けく天下の政をきこしめさなん……というので、東征なぞとは決して言っていない。それが書紀には東征とある。これは支那流の言葉で、平定という文字を遣ったと同一の筆法である。天照大神の御代からわずかに百四五十年で、東方がことごとく乱臣賊子のようなものになっているはずはない。これは御東征でなくて、御遷都である。最早九州韓国が言向け和されたので、都を元の高天原にお遷しになろうとの御計画で、九州をお立ちになったのであって、弓矢の戦争においでになったのではなく、東へ東へと言向け和しながら、お進みになったのであるから、したがって随臣《すいしん》たちもそんなに多数を要するはずがないから、極めて少数のお家来をおつれになっただけであろうと思われる。

 けれども、たまたま長髄彦のような抵抗者が現れた時は、やむを得ずこれを相手に戦い給うただけである。

 大和にお入りになった時、そこにいた土豪等の反抗が強かったので、今日の吾々が言うところの戦争に類したものがあったらしいが、それとて、説いて教えても、どうしても承服しないものだけを殺したので、日本書紀には支那流の文章で誇張して書いてあるから、征服が主で、大激戦があったように見えるが、古事記の方では、「荒ぶる神たちを言向け和し、降伏《まつろ》わぬ人どもを掃い平げ給いて、畝火の白橿の宮にましまして、天の下治しめしき」と、あって、言向け和すが根本になっている。

 次に日本武尊について考えて見よう。
 小碓命は勇敢無比であられた。古事記の中巻には、

西方有熊曾健二人、是不伏無礼人等、故取其人等而遣。
西の方に熊曾健《くまそたける》二人あり、これまつろわず。礼《いや》無き人等《ひとたち》なり。故に其人たちを取れと詔りたまいて遣わしき。

と、あるが、日本書紀には、

秋八月熊襲亦反之侵辺境不止、冬十月丁酉朔巳酉遣日本武尊令撃熊襲時年十六。
秋八月熊襲また反して辺境を侵してやまず、冬十月日本武尊を遣して撃たしむ。時に年十六。

と、ある。例によって漢文口調は戦闘気分たっぷりである。けれども古事記の方を考えてみると西方の熊曾健二人は、【まつろわ】ないで礼《いや》の無い男である。故にその男達を【取れ】と仰せられたのである。この文中で二つの言葉の解釈をし直してみる必要がある。

 第一は、【まつろう】という言葉である。漢字では「伏」と書いてある。平伏、降伏の伏であろうか。私はこれを「まつる」だと思っている。「まつろわず」は、「まつらず」であると思う。すなわち、この熊襲二人は、天神をまつろわず、天皇をまつろわない国憲の違反者なのである。天皇の命に服して、天神を祭る事をしないのが国賊だったのである。「礼《いや》無き人たち」とは、天之御中主神を礼拝しない人たちという事である。だから景行天皇は、小碓命に命じて、この二人を言向け和すためにお遣しになったのである。しかし、どうしてもその言向に従わない時はやむを得ずこれを誅する覚悟をもって出発したのが、当年取ってわずかに十六歳のお若さである小碓命であったのである。

 第二は、【取れ】という言葉である。取るという言葉の意味は、討取る、殺す、除く、占領、奪う、懐《なつ》ける、など種々の意味がある。ここでの「その人たちを取れ」と、いう意味は、最初から殺せという意味では無かろう。よく説き示してその心を収攬せよという意味と、已むを得ざれば討取れという両様の意味を含めて解釈しなければならない。

 何故そんな解釈をしたかというと、書紀に書いてある如く、「反して辺境を侵してやまざる」強敵の所へ、しかも御年わずかに十六歳の若き皇子を、九州の果てまで、ただお一人でお遣しになるはずがない。書紀には誇張の文意があるとして、この時小碓命に随って行ったのは、弓の名人である、弟彦公《おとひこぎみ》、石占横立《いしうらのよこたて》、田子の稲置、乳近の稲置の四人だけだということになっている。古事記には従者の名は一人も見えない。しかも小碓命は、その時短刀を懐にしていられただけで、太刀も矛もそんな武器らしいものは持って行かれなかったのである。

 小碓命は、はるばる九州までおいでになった。そして形勢を御観察なされたところ、健《たける》たちは神をまつろう気配もなく、新しく家を建てたその落成祝を行う様式を見ても、すこしも天神を祭るらしい様子がない。そこでその饗宴の席に変装しておいでになり、酔後の健兄弟を誅し給うたのである。そして、九州から長戸までの豪族を、次々と言向け和して出雲までお入りになったのである。

 出雲にも一人の、天神をまつろわない健がいた。説いても教えても、うんと言向けしないので、その健を討ち取ったが、その時の小碓命は、木刀しか持っていられなかった。

 その後、「東の方十二道の荒ぶる神、またまつろわぬ人どもを言向け和せ」という勅を受けて出発し給うたのである。この勅語中に「荒ぶる神」と、「まつろわぬ人ども」を区別せられている事に注意しなければならない。この時天皇から比比羅木《ひひらぎ》の八尋矛《やひろほこ》を賜った。これは伊耶那岐命が天の瓊矛をお持ちになって御降臨なされた故事に、おならいになったのであろう。書紀には、斧鉞《ふえつ》を受くと書いてある。斧鉞は矛に大斧《まさかり》を付けた刑具である。左伝下巻昭公四年秋八月に、斎の慶封を擒《とら》えて、これを殺す時、先ずその首斬道具の斧鉞を負わせて、諸侯の面前を引き回した記事がある。比比羅木の八尋矛を、支那の斧鉞としたのは、如何にも日本離れのした書き方である。小碓命は、決してそんなお仕置道具を頂戴したのではない。

 この御東征も、今日の吾々が考えているような征伐でなかった。やはり言向け和すために、東方十二道を御巡教なされたのである。だから兵士を率いておいでにならなかったのである。古事記では、御鉏友耳健日子《みすきともみみたけひこ》ただ一人が従者で、膳夫《かしわで》として七拳脛《ななつかはぎ》、お妃の弟橘比売《おとたちばなひめ》の三人がお供をしているだけで、総勢四人である。誇張好きの書紀の方でも大伴健日連《おおともたけひのむらじ》というのが一人多くなっているだけである。津田左右吉博士は、この御東征を、「地方民の綏撫《すいぶ》」だと言われているのはうれしい解釈である。(古事記及び日本書紀の新研究第三章一、古事記の物語参照)

 かくて御一行五人は、大和をお立ちになって、伊勢に入り、皇大神宮へお詣りになられ、そこで姨《みおば》の倭比売命に御面会なされたと、記紀の両書をはじめ、歴史という歴史が一致して書かれている。けれども当時の斎宮は、三代目の五百野皇女《いおののこうじょ》で、しかも二十一年も以前から伊勢へおいでになっている。

 倭比売命が、豊鍬入姫命《とよすきいりひめのみこと》に代って御杖代となられたのは、崇神天皇の二十七八年頃に当たる。その時第一代の斎宮豊鍬入姫命は、二十一箇年間奉仕して、老齢その任に堪えずとして、御交替になったのである。その時倭比売命は、まだお若かったであろうが、その後六十八年間諸所に遷幸なされた上、いよいよ今の伊勢に大神宮をお定めになり、倭比売命が斎宮として伊勢にお住まいになった時は、少なくとも八十歳以上であったと思われる。(中村徳五郎氏著皇大神宮史参照)

 ところが小碓命がこの御東征の途に上られたのは、それから更に百十五年の後に当たる。と、すれば、その時の倭比売命は、二百歳前後になる計算である。昔の人は長寿したから御生存であったろうというかも知れないが、それにしても、その時は既に五百野皇女が、斎宮として奉仕していられたのである。しかも、奉仕後二十一年の歳月を閲《けみ》している。その斎宮をさしおいて、倭比売命から草薙剣を小碓命にお授けになったという事は、どう考えても理屈に合わない。これは誰の書かれた書物、辞書を見ても寸毫も疑義を挟んでいない。久米邦武博士の如き詮索家でも、そのままに承認されている。ことに、あれだけ皇室で御尊敬なされた神器の一である草薙剣を、斎宮の御一存で小碓命にお授けになることが出来るものであったろうか。これについても深く研究しなければならない御事情があったに相違ない。

 倭比売命が、当時なお御存命であったとすれば歴史の年代に誤記があるのだと考えなければならないが、私の考えでは、この場合の倭比売命と申すのは五百野皇女、一名久須姫命の誤記ではなかろうかと思うのである。

 伊勢での小碓命は、非常にやさしいお方になっていられる。
「天皇はやく吾をば死ねとや思すらん、如何なればか、西の方のまつろわぬ人どもを取りに遣わして、返りまい上り来しほど、幾時もあらぬに、軍人どもをも賜わずて、今更に東の方の十二道の悪人どもを言向けに遣わすらん、これによりて思えば、なお吾れ早く死ねと思おしめすなりけり」
と、述懐なされて、思い泣き給うたと古事記に書いてある。久米邦武博士は、この記事をもって
「記者の思想をもって構造したる談なり。この尊の気性[#底本では「気象」]と絶対に反せり」と書かれているが、(日本時代史第二巻第十三章五十七節)この年小碓命の御年は二十九歳で、既に六人の王子までいらせられたのであるから、この嘆きは怪しむに足りないことである。

 この時、草薙剣と、燧袋とを斎宮から授けられたと記紀共に書いてある。これは慎重に考えなければならない記事である。

 戦争に行くのであるならば、討死は覚悟の前であるのが、日本の武士道である。日本で武士道といったのは、小碓命を日本武、即ち日本武《にっぽんぶ》の尊といったのが最初である。その武士道の元祖である小碓命が討死の覚悟をもって、ただ二人の家来をつれて戦場に臨み給うたのであったとするならば、あの日本国に取って最も貴重なる草薙剣を、そう容易く、天皇の勅許も得ずに、小碓命に授けるはずがない。万一討死されたならば、その宝剣は敵の手に入るではないか。だからこの宝剣を授けたという記事についても、大いに考究しなければならぬが、今のところ、これを正確だとしなければならない。ただお授けになった斎宮の御名が、倭姫命であるか五百野皇女であるかという問題だけが残るのである。

 しからば何故この無上の尊貴な品である草薙剣を小碓命に授けられたのであろうか。思うに、これは東方十二道の言向けに出で立ち給う、即ち津田左右吉博士のいわゆる地方民の綏撫《すいぶ》に御出立なさる小碓命に、天照大神も御一緒にお出でになるという意味で、宝剣を御霊代《みたましろ》として授けられたのではなかろうか。しかも、それは小碓命が、天照大神から直接の御告げであったという意味であったろうと思う。

 それは、斎宮五百野皇女が、天照大神の神告を得た結果ではなかろうか。その神告のうちに倭比売命が現れて、天叢雲剣を小碓命に授けよと告げられたので、五百野皇女から、これをお授けになり、小碓命はこの宝剣を捧持して、天照大神と共に東方諸国の国造達に、天神を崇拝し、この祭祀を怠らぬよう、言向け和しにお出でになられたのを、記紀共に書き落としたのではなかろうか。これは倭比売命が二百年も生きていなかったろうと思う私が推量して言うだけの事であって、何の文献もなければ権威ある言葉でもないことを断っておく。

 それから、何故燧袋《ひきりぶくろ》をお授けになったかというに、これは決して、野原で焼討にあった時の用意にという意味ではあり得ない。さきに「日」中心の日本国の条で、くどいほど説明した如く、火の穢《けがれ》をやかましく言っていたその頃であるから、
「もし急《とみ》の事あらば、この嚢《ふくろ》の口を解きたまえ」と仰せられたのは、穢れの火に遭遇した時は、この燧金《ひきりがね》燧石《ひきりいし》で、清き火を打ち出して身を清め給えとの意味であったに相違ない。

 相模の国までおいでになった時、そこの国造が反抗して小碓命を野に誘い出し、四方から枯野に火をつけたというのは、穢れた火が小碓命を取りまいたという事なのである。その時天照大神の御霊代である草薙剣を捧持している小碓命がこの斎宮から授かった燧金《ひきりがね》燧石《ひきりいし》の入っている袋を開いて、向火《むかび》をつけて焼き退けたというのは、地上の穢れた火と、伊勢の大神宮で頂戴して来た神聖な天火との戦いであって、つまり聖火が穢火を征服したという譬えなのであろう。こう解釈して来て、始めて記紀の文が正確に解釈出来ると私は信じている。

 それから、今一つ注意すべき出来事は、小碓命が伊勢の大神宮に御参拝なされ、今の桑名の近くの尾張街道の尾津の崎までおいでになって、御食事をなされた。今日の吾々から申せば、御弁当をお上がりになったその場所は、大きな一本松の生えている所であった。非常に景色の佳い所ででもあったろうか、そこでお休みになられて、いざお立ちという時、御佩《みはか》しの刀を忘れて来られた事である。もし戦争においでになるのであったならば、刀をお忘れになるはずもなく、よしお忘れになったとしても、大急ぎで、それを誰かに取りにお遣わしになるはずである。ところが、この刀は長い月日を経た三年の後に、東路からお帰りになった時、その刀がまだその所にそのままであったのを御覧になり、非常に喜ばれ

尾張に直《ひた》に向へる、尾津の崎なる一つ松、吾兄《あぜ》を、一つ松、人にありせば、大刀佩けましを、衣着せましを、一つ松、吾兄を。

という歌をお詠みになっている。秦の始皇が泰山で暴風の時、松の木の下で風を避けたので、松の木を五大夫に任じた話も憶い出でられる挿話である。この一事も、小碓命の東征は、日本の国憲であった天神諸神の祭祀を奨励監督なさる意味の御綏撫であって、戦争が御趣意でなかった事が知れる。

 相模の国で海上が荒れて、弟橘媛の御不幸があったほかは、順調に御旅行をなされたと見え、常陸風土記には、百姓に新しく何箇所にも井戸を掘らせて清水を得さしめたり、海浜の漁夫たちが海苔を製しているのを御覧になったり、景色の佳い丘上や海岸で、土地の国造たちの奉る御膳《みけ》をお食《あが》りになられたり、鴨猟をなさったり、船にお乗りになって海苔の繁茂した有様を御覧になったりしていられる。

 かくの如く国々を言向け和して、国造たちの祭神の状をお調べになり、尾張までお帰りになった時、伊吹山に反抗心を抱く多多美比古という者がいるとお聞きになり、そこへ言向けにおいでになった。この時は草薙剣を国造の娘、美夜受比売《みやすひめ》にお預けになって、徒手《むなで》で単身伊吹山へおいでになられたのである。ところが急に天候が険悪になり、大きな雹が降って来たりして、にわかに御気分が悪くなられたので、急いで伊勢の方へおいでになり、鈴鹿山の近くまでおいでになった時、天叢雲剣のことを思ひ出でられて

をとめの、とこのほとりに、わがおきし、つるぎの大刀、その大刀はや

とお歌いになって、美夜受比売にお預けになった大刀の事を気になされながら、おかくれになられたのである。

 そこで美夜受比売は、お預かりしていた草薙剣を奉斎して尾張の熱田に一社を建て、その御剣を天照大神の御表号として斎き祀ったのである。それが今の官幣大社熱田神宮であって三の御前に日本武尊、四の御前に美夜受比売を祭られている。

 こう考えて来ると、平定という漢字の意味は、征服征伐の意が主でなく、言向け和すのが主であって、どうしてもその言向けに対して首肯しないものは、やむなく殺したのであると言わなければならない。けれどもその言向け和すというのを、今日の説教や講演の類と心得てはならない。

 中山太郎氏の著日本民族辞典(昭和八年十一月七日刊)三百八十二頁に、「コウゴイシ」の一項がある。これを私は「神籠石《こうごうせき》」と呼んでいるが、中山氏は「神護石」と書いてある。この神籠石は、昔の城塞であったか、斎場であったか、学者の間にいろいろの議論がある。ところが中山氏はその説明の中に、こんな断定を下している。
「これは斎場を主とし、城塞を従としたものと見る事が出来る。何となれば太古の斎場は直ちに城塞であったからである」

 実に吾が意を得た解釈である。日本人の昔の戦争は、先ず神を祭るか否かの思想戦であったのである。だから言向け和して、直ちに神をまつろう誓約をした者には、神に対して誓約をさせたのであろう。その誓約を「うけい」と言った。これは好《よ》き祈りの意である。ところが、国司や国造たちに不信なものがあって、神に対して誓約をしない時は、「のろい」という祈りをした。「のろい」は悪しき祈りであって、漢字の呪咀《じゅそ》に似ている。もし神に従う誓約をしなかったならば、この悪しき祈りをせられる。それは非常な打撃であらねばならない。

 神籠石《こうごうせき》という祈祷の場所を設けて、そこで不誓約者のために不幸の来る悪しき祈りをする事は大きな思想戦である。たいていの者はその「のろい」に対しては屈服したであろう。それでもなお平然として誓約をしない者は、やむなくころを殺して、国家の平安を保ったのであると、私は信じている。

 昭和五年九月二十九日の大阪朝日新聞に左の記事があったことを付記しておく。

文部省では福岡県の糸島郡(怡土《いと》郡)[#底本は「怡度郡」だが「怡土郡」の誤記だと思われる]雷山神籠石及び同県三井郡高良山の神籠石を近く史蹟名勝記念物として指定することにほぼ内定している。
この神籠石は右両山の絶頂近くに高さ五六尺から七八尺くらいの石に人工を加えて一つ列べに全山を取り巻いていたもので、現在でも大体その形式が残っている。従来各学者間では、これらの石垣を往時霊地を護る「ヒモロギ」即ち一種の神域と見るもの(喜田博士ら)と昔時外敵を防ぐためにもうけた朝鮮式の山城と見るもの(関野博士ら)と両者にわかれて議論され、未だ結論には達していないが、とにかく天智天皇以前に造られたことは確実であるということになっている。


なるほど。
後世の人間が読むと、武力で先住民を征伐した、と解釈できてしまう、ということでしょうか。

天孫ニニギの随臣五神が祭祀関係の神であるとか、ヤマトタケルの東征も兵士を率いずに随行が4~5人しかおらず征伐ではなく巡教であったとか、とても参考になる話です。

(続く)