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地上界に現れた「正道」と「公義」の事例

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年07月05日

前回の続きです。

前回は、天国・霊国の統治制度である正道・公義とはどのようなものなのか、私なりに考えてその実例を一つ示しました。
単純に言うなら、人情とか友愛を重んじるのが正道で、秩序とか公平性を重んじるのが公義です。
今回は他の例を探してみます。

金子政務官の公用車私的利用疑惑が最近巻き起こりました。
自民党衆院議員で総務大臣政務官の金子めぐみ氏が、公用車で子供を保育園に送迎しているのは公用車の私的流用ではないかと週刊誌が報道し、ネットで賛否が分かれ激論となりました。
報道だけを聞いていると、たしかに公私混同でけしからんと思ってしまうのですが、しかし金子政務官を擁護する人もいます。金子政務官は自宅(議員宿舎)から職場(総務省や議員会館)への通勤に公用車を使い、議員会館内の保育所に子供を預けるために、子供も公用車に乗せていたというのです。つまり自分の通勤に合わせて子供を送迎していたわけです。擁護派は、そういうことは働くママさんならよくやっていることであり、通勤と送迎を切り離していたら、仕事と子育ての両立が困難になるというのです。実際に自分も子育てをしてそういう苦労をした人からの擁護が多いようです。
それに対して金子政務官を批判する人は、不公平ということを問題にしています。公用車使用のルールとしては、金子政務官の例はOKらしいです。しかし国民が苦労してベビーカーを押して保育所に送迎したり、そもそも入園すら出来ずに困っている人もいるというのに、国会議員は税金を使って公用車に乗り、子供も乗せているのは不公平だ、子供も乗せるなら使用料金を自腹で払え、というのです。
前者は人情派ですね。たいへんなんだからそのくらい認めろよというわけです。
後者は公平派です。公用車の運用を厳格にせよ、そもそも公用車など必要ない、国会議員を特権階級にするな、というわけです。

このような論争には、政権批判や妬み僻みやっかみ等が含まれていますので、天国・霊国の正道・公義そのものではありません。しかしその傾向は現れているように思います。
政治や社会問題の論争には、天国・霊国の統治制度である正道と公義が現れて来るのです。

人情を重んじる正道派と、公平を重んじる公義派は、価値基準が異なるので、議論が噛み合うはずがありません。それで互いに「自分が正しい」「お前は間違っている」という闘争を続けているのです。

前回書いたように、宇宙には正道と公義という、二つの基準があります。正しいことは二つあるのです。
人間の目が二つあり、両方の目で見てモノが立体的に見えるように、正道と公義という二つの基準で見て初めて物事が立体的に見えて来ます。片目だけで物事を見て「お前の言っていることは間違っている」と批判するのですが、左目で見た世界と右目で見た世界というのは意外と異なるものですよ。遠くにあるものはほぼ同じに見えますが、近くにあるものほど、左目と右目とでは全く違って見えます。この道理を理解する必要があります。

正道派ならいつでも正道派、というわけではなく、一人の人間が時と場合により正道派と公義派を使い分けている場合もあります。特にマスコミの人間がそうです。彼らは金儲けのためにスキャンダルを報道しますが、どういう切り口で報道すれば金儲けが出来るか(発行部数や視聴率が伸びるか)いろいろ考えるわけです。それで読者・視聴者が「これは非道い、かわいそー」と思う切り口(正道)と、「不平等だ、けしからん」と思う切り口(公義)を時と場合に応じて使い分けるのです。
金子政務官は結局、自宅から職場まで1キロほどをベビーカーを押して歩くことにしたようですが、もし最初からベビーカーを押していたなら「公用車に子供を乗せられない規則とは、何と融通が利かないのだろう。これは女性の社会進出を妨げている」という逆の切り口で報道して政府を批判するのです。マスコミは言論のプロなので、どっちにでも料理できる腕を持っているのです。

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前回の事例も今回の事例も、正道派と公義派がほどよく分かれていましたが、両者がいつでも真っ二つに分かれるわけではなく、賛成派と反対派の中に、正道派と公義派が入り混じっている場合も多々見られます。

死刑制度の是非は賛否が分かれる大きな課題です。
世界の流れは死刑廃止ですが、各種世論調査を見ると、日本国民の8割くらいは死刑制度に賛成しているようです。

総務省の死刑制度に対する意識調査(平成26年度)によると、死刑賛成の理由として挙げられた上位2項目は
「死刑を廃止すれば被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」と
「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」です。
前者は「被害者や遺族が可哀想だ」ということでしょう。人情重視の正道的な意見ですね。
後者は同害報復的な考えだと思います。公平性重視の公義的な意見です。

一方、死刑反対の理由の上位2項目は
「裁判に誤りがあったとき死刑にしてしまうと取り返しがつかない」
「生かしておいて罪の償いをさせた方がよい」
前者は、「間違いで死刑にしたら可哀想」とも受け取れるし、「間違いで死刑にしたらフェアではない」とも受け取れます。しかしどちらかと言うと公平性重視の公義的でしょうか。
後者は、「生かして罪の償いをさせる方が同害報復だ」という考えのように受け取れます。そうすると公義的ですね。
反対理由の第3位と第4位は
「国家であっても人を殺すことは許されない」
「人を殺すことは刑罰であっても人道に反し野蛮である」
これは「重罰すぎて可哀想」ということでしょうかね。人情重視の正道的です。

このように反対派・賛成派にそれぞれ正道・公義が入り混じっているのです。

ちなみ王仁三郎は死刑反対です。「悪い事をしても、死刑にすると言ふのはあまりに可愛さうな事である」と述べています。〔「刑法改正問題」『月鏡』〕
これは正道ですね。

もっとも人の気持ちには、「可哀想だから、不公平だ」とか「不公平なので、可哀想だ」というように、両方の気持ちが入り混じっている場合があるので、実はそう簡単に正道とか公義とか区別することは出来ないと思います。
誰でも両方持っているのです。
これは、人は誰でも神から等しく一霊四魂(霊魂)を与えられており、その一霊四魂の活用として、正道と公義という価値基準が出て来るからだと思います。そのどちらが強く働くかで、正道的か公義的かの違いが生じるのです。

個人の性格だけではなく、民族性にも正道的か公義的かのカラーが出て来ます。
日本は公義的です。人情は薄いと思います。
よく、日本人は義理人情が大好きだ、とか言いますが、情の厚さで言ったらアメリカ人や韓国人の方がはるかに厚いと思います。
たとえば次のような事案があります。

ある高齢の老夫婦がいます。妻は痴呆症で夫が一人で介護しています。老々介護です。
妻は町中を徘徊したり線路に立ち入ったりして、保護される度に夫が頭を下げて引き取りに行きます。しかし痴呆の妻は夫を夫と認識せず、怒鳴ったりなじったり八つ当たりしたりで、夫はもう心身共に疲れ果ててしまいました。生きる気力をなくした夫は、ある日ついに心中しようとして妻の首を絞めて殺してしまうのです。しかし自分は死にきれずに殺人犯として逮捕されてしまいました。
この夫は、そりゃあたしかに殺人犯に違いはありません。しかし、一人で介護している老人に何の助け船も出さない社会にこそ責任があるのであって、刑罰を果たすのはあまりにも可哀想です。
しかし日本では、このような場合でも法に従うべきだと言って、容赦なくムショにブチこんでしまうのです。介護に疲れ果てた老人をムショにブチ込んで、一体誰が得をするというのでしょうか? あまりにも杓子定規すぎます。ですが日本では法律が最優先するのです。

これがアメリカだったらどうでしょうか?
アメリカは住民自治が徹底しています。陪審員が無罪の評決を下したら無罪になるのです!
これが民主主義のダイナミズムです。日本の裁判員裁判では何事も前例に従って決めて行くので、裁判員なんて不要では?という状態ですが、アメリカの裁判は人民の意思によってダイナミックに決まります。
日本では法の下に民がいると思われていますが、アメリカでは民の下に法があるのです。人民の意思こそが最優先です。
人情というものがあるならば、このようなケースは無罪放免にしてよろしいのではないでしょうか。
『日本とアメリカでは司法制度が異なる』というツッコミを入れる人もいると思いますが、そもそもそういう司法制度を作ること自体が、民族性を現しているのです。

しかし情に流されすぎるとおかしなことになります。
アメリカでは年間1000人もの人が警察官によって射殺されています。アメリカは銃社会なので警察官も命がけです。しかしその中には正当とは言えない銃使用のケースも多数あり、特に殺した警察官が白人で殺された人が黒人だと、人種差別だとしてたびたび社会問題になります。
最近はスマホの普及で、警察官の銃撃を撮影した人がネットにアップすることもよくありますが、それを見るとたしかに一発撃てば済むようなところを、5発も6発も、相手が動かなくなった後まで撃ち続けているようなケースもあります。あまりにも異常です。
しかしそのようなケースでも、陪審員が無罪の評決を下せば、その警察官は無罪となるのです!
さすが民主主義国家、なんて言っていられませんね。
人情ばかりに偏ると、このような不公平なことになります。

逆に公平性ばかりに偏ると、冷たい、と感じることになります。前述の老々介護殺人事件もそうですし、公用車保育所送迎問題でもそうですが、法を厳格運用しようという人は、情の無い冷たい人、と感じられるのです。

正道と公義、両方兼ね備える必要があります。
天界は想念の世界ですので、天国と霊国が入り混じることはありませんが、現界は物質界なので、両者は入り混じるのです。
正道と公義、どちらかに偏るのではなく、両方必要です。
そして、小さな正道・公義ではなく、大きな正道・公義にならねばなりません。
小さな閉じた愛だと、自分の属する人種・民族のみ愛してしまい、その結果、公平性が失われます。大きく開いた愛にしなくてはいけません。
また、小さな閉じた秩序だと、小さな社会・出来事にしか適応できず、広く多様な社会・出来事に適応できずにかえって混乱しかねません。これも大きく開いた秩序にしなくてはいけません。

王仁三郎が、火を動かすものは水であり、水を動かすものは火である、と言っていますが〔第4巻第48章参照〕、それと同じように、正道を動かすのは公義であり、公義を動かすのは正道なのかも知れません。

極めると、大きく広がった正道と、大きく広がった公義は、出て来る結果は同じになるのではないのかと思うのです。
正道も公義も極めれば同じだ、ということです。

最初の方でこういうことを書きました。──近くにあるものは片目で見ると左目と右目とで違って見えるが、遠くにあるものは片目で見ても、ほぼ同じに見える──と。

そういうことです。

今はまだ地上界の正道も公義も、小さな、小さなものでしかなく、互いに理解できずに非難し合っていますが、広く大きな視点で見て行けば、正道も公義も同じものになって行くのではないかと思うのです。

──とりあえずこの話題はこれで終わりにします。

次回から別の話題にします。