日別アーカイブ: 2017年5月20日

王仁三郎の和歌の師匠・岡田惟平の略歴

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月20日

国学者の岡田惟平(おかだ・これひら、1822~1909年)は王仁三郎の師匠の一人です。
王仁三郎に国学や和歌、歌祭りなどを教えた、王仁三郎史の重要登場人物の一人です。王仁三郎が昭和10年に再興させた「歌祭り」は岡田惟平に教わったからこそ再興できました。
重要な人物ですが、資料はそれほど多くありません。

まとまった文献としてはおそらく唯一と思われる本が岡田完司・著『“あるがままに生きた”伝説の歌人 国学者 岡田惟平』(2008年)です。
↓このページに紹介文があります。著者の岡田完司氏は岡田惟平の曾孫に当たる人です。
http://tanbarakuichi.sakura.ne.jp/nantan/bookreview/nbr19.html#okadak

自費出版のようで、書店では入手できません。私は「京都府立京都学・歴彩館」で閲覧しました。

同書を元にして、他に『大本七十年史 上』『大地の母 1』などを参考にして、岡田惟平を偲び、その略歴を作ってみます。

  • 文政5年(1822)12月6日、摂津国川辺郡西谷村の内大原野村(現・兵庫県宝塚市大原野西谷)の農家に生まれる。(地図だとこの辺り
  • 通称・歌之助。父は和平、母は晶(しょう)。
  • 摂津は著名な国学者が輩出しており、農民の子であるが、惟平は働きながら勉学に励んだ。
  • 27歳の時、丹波の園部へ行き、園部藩の儒者・坂本三七の元で漢文や儒学を学ぶ。なぜ園部まで出向いたのかは不明。
  • 数年間勉強した後、故郷に帰る。そして農業をしながら、近くの儒者・武藤豊樹や、勤皇家の歌人・錦小路頼徳に師事して、国学や和歌の道を学ぶ。また本居学統の国学者・八木立禮について万葉歌風を究める。30代で国学、儒学、書道など究めたが、中でも和歌が最も得意であった。後進の指導にも取り組み、遠近から教えを請いに訪ね来る者が多かった。
  • 30歳を過ぎた頃、ウノという名の女性と結婚。三男一女をもうける。長男は安政2年(1855)に早世。
  • 万延元年(1860)38歳の時、突発性の耳の疾病にかかり、聾者となる。以後の会話は筆談となる。
  • 翌年(1861)、父・和平が死去。
  • 学問に身を投じる惟平家の生活は苦しく、次男の楚玉は9歳で丹波・法京村の普門寺(現・南丹市園部町法京蔵垣内)へ預ける(『大地の母』では福泉寺とするが、本書では普門寺だとしている)。また三男の徳栄は摂津・此花郡の黄檗宗の寺へ預ける。
  • 文久2年(1862)「詩玉度 ことばたまど」という自筆の動詞活用表を作成。惟平が創作し、門弟に正しい「仮名づかい」と「文法」を指導するために使ったと思われる。
  • 惟平は筆談だったが、「ありませぬ」「存じませぬ」という丁寧な言葉づかいで、仮名づかいを特にやかましく言ったという。歌人の佐佐木信綱(1872~1963年)は惟平の遺稿を見て「まれに見る仮名つかいの大家である。数多の原稿の中で一字の写し違いもみなかった」と語っている。
  • 慶応2年(1866)次男・楚玉が園部の南陽寺に転住。
  • 明治2年(1869)妻のウノが死去(享年50歳)。
  • 明治8年(1875)次男・楚玉が南陽寺の住職となる。
  • 明治19年(1886)母の晶(しょう)が死去(享年84歳)。
  • 明治21年(1888)宮内省に御歌所が設立され、惟平は寄人(よりうど。職員のこと)に推薦されたが、健康上の理由(高齢、耳疾)で辞退した。
  • 70歳頃(明治26年頃)から南陽寺に滞在することが多くなり、寺の衆寮(僧侶が居住する建物)で地域の人15~6人に国学の指導をする。その中に上田喜三郎(後の出口王仁三郎)がいた。
  • 上田喜三郎は明治26年(1893)7月、故郷の亀岡を離れ、園部で獣医をしている従兄の元に書生として住みこんだ。そこは井上牧場という所で、南陽寺の隣にある。喜三郎は働きながら、南陽寺で惟平に師事して国学や和歌を学んだ。(詳細は『大本七十年史』参照)
  • また喜三郎は、住職・楚玉の長男・岡田和厚(当時10歳)と無二の親友となった。その弟・岡田了範(十五世住職)の二男が本書の著者の岡田完司氏。南陽寺の住職は代々岡田惟平の子孫が継いでおり、現在の住職は岡田紀章氏。
  • 惟平が喜三郎に教えていたのはわずか1年2ヶ月ほどであったが、「あれはなかなかの傑物だ。しかし一歩誤ると堕落してしまうおそれがある」と、喜三郎に非常な期待を寄せていた。
  • 明治27年(1894)惟平は摂津に帰る。
  • 明治29年(1896)南陽寺が火災に遭い、惟平の作品、持ち物はこの時に焼けてしまったと思われる。
  • 明治40年(1907)2月、86歳の惟平は、孫の文孝(楚玉の子?)が住職をしていた園部・観景寺に転居する。
  • 明治42年(1909)9月15日、惟平は観景寺で死去。享年89歳。墓は摂津・大原野の共同墓地にある。
  • 明治45年(1912)門弟たちによって大原野に惟平の顕彰碑が建てられる。阿弥陀寺の門前にある。
  • 惟平の亡き後も出口王仁三郎はたびたび南陽寺を訪れて、師を偲んで「敬老尊師」と染筆した。この書は今も南陽寺に残されている。
  • 昭和8年(1934)12月3日、王仁三郎は南陽寺に惟平を顕彰する歌碑を建立。「二夜ともなき望月の影きよみ もりてふかさん軒のさむしろ」という惟平の和歌が刻まれた。しかしこの歌碑は2年後に起きた第二次大本事件で当局によって破壊されてしまい、そのあおりで惟平の遺品まで焼却されてしまった。
  • 昭和40年(1965)12月3日、有志によってほぼ同じ歌碑が再建される。

南陽寺のサイトの中に歌碑のことが記されています。
http://www.nanyouji.net/yom02.html

↓昭和8年に出口王仁三郎が建立した岡田惟平の歌碑
昭和8年に建立された歌碑と出口王仁三郎

↓昭和40年に有志が再建した歌碑(2016年8月撮影)
昭和40年に再建された歌碑

↓南陽寺(2016年8月撮影)
南陽寺

↓歌祭は岡田惟平に教わったので再興できた(第一回目の歌祭、昭和10年10月31日、天恩郷の明光殿にて)
歌祭