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精神統一と雑念

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月17日

「精神統一」というと、何か一つのことに意識を集中して雑念を排除することだと思います。
また、座禅を組んだり瞑想したりして「無我の境地」になるというのは、雑念も何も意識を無にしてしまうことかと思います。
ところが実際には色々な雑念が湧いて来て、なかなか雑念を無くすということが難しいんですよね。

王仁三郎に言わせると、雑念を無くそうという気持ちがそもそも雑念のようです。

…鎮魂(大本式の精神統一法)をして座っておっても色々のことを思い出すように、無我無心になるとか精神統一をするとか言うても、統一しようと思う心がすでにもう統一できていない。
無我無心になろうと思うから無我無心になれぬ。
人というものは、いくつにもその魂が分かれて動くのだ。あっちにもこっちにも魂が分かれて活動する。だから色々思い出すのは、その分かれて活動している魂が思わせるので、それをまとめる、統一するのが、本当の統一なのだ。

思い出すことは良いのだ。忘れたことを思い出し、あっちのことを思い、こっちのことを思い、一時に一切のことを思い出す。それで本当に統一ができるのだ。それが無我の境なのだ。
精神喪失状態になるまで行くのが無我の境だと今の人間は思っているが、それは間違っている。そんなことをやって亡骸(なきがら)になったら大変や(笑)
…あれもせんならん、これもせんならんという気持ちになって来る。それが無我の境で、みんなの考えているような、みな忘れて死んでしまう事とは違う。

(神様を拝みながら色々思い出し考えたりする事は悪い事ではないのですか?という質問に対して)

それはつまり、色々の事が集合して来るのだから、いいのや。それが無我の境で、すべてが幸(さち)わうのだ。
ああしよう、こうしようという智慧がついて来るのだ。
あっちを思い、こっちを思う、それが大本の無我で、今の世の中の無我とは違う。
世の中の無我とは死んだ無我や。大本のは生きた無我や。

〔「出口王仁三郎聖師と出口寿賀麿氏を囲む座談会」より〕

無我というのは「我が無い」ということですが、本当に我が無くなった状態(精神喪失状態?)では、よくないようですね。何か一つのことに張り付いてしまうことが、よくないようです。

また王仁三郎は次のようにも教えています。

 真の無我の境というのは人間としてあるものではない。無我のような感じを起こすことはある。それはある事業に没頭して、それに一生懸命になっておれば、他の仕事に対しては無我の境に入(い)ることになる。しかし夢中になっておるその仕事に対しては、決して無我ではない。
精神統一というが、これまた言うべくして出来得べきことではない。
祝詞を奏上しながらもいろいろなことを思い浮かぶるのが本当である。
鎮魂というのは「離遊の運魂(うんこん)を招いて身体の中府に鎮める」ことであるから、いろいろの雑念が集まり来たるが当然である。その雑念は罪障に対する回想や希望となって現れて来るもので、それを想うのは、別に悪い事ではない。

〔玉鏡「無我の境」〕

なるほど。私も祝詞を唱えてながら色々と雑念が湧いてしまって仕方がなかったのですが、それはそれでいいのですね。

結論を言うと、あれこれ湧いて来る雑念を一つに統べることが真の精神統一、ということになるでしょうか。

(この文章は「霊界物語スーパーメールマガジン」2013年7月12日号掲載の文章に加筆訂正したものです)