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霊界物語は全1728巻必要だった?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月26日

霊界物語は全部で81巻まであります。
「え!誰かの本に83巻って書いてあったよ」と疑問に思う方もいるかも知れませんが、冊数は83冊で、巻数は81巻なのです。その理由ははこちらを読んで下さい。→「霊界物語の基礎知識10

しかし王仁三郎は、最初はもっと多く書く予定でした。
第1巻の「附記」の冒頭に

「霊界物語は総計120巻をもって完成する予定になっております」

と書いてあります。
結局は約3分の2の81巻で終わりましたが、81巻でも読み切れないのに120巻もあったら、もっと読み切れませんね。

しかし。
本当はそれよももっともっと多くなっていたかも知れないのです。

第41巻「序文」には次のように書いてあります。

…天地混沌、陰陽未分際より現代に至るまでの宇宙の現幽神三界の出来事や神の御経綸を大体において明かにするには、本書三十六巻(四百頁一巻)をその一輯として、四十八輯を口述せなくては、詳細に説示することはできないのであります。四十八輯全部完成する時は冊数一千七百二十八となり、瑞月(注・王仁三郎のこと)が今後身を終えるまで口述を続けてもとうてい不可能的事業であります。

36×48=1728冊(巻)とは…!
仮に3日で1冊書いたとしても、5184日が必要で、毎日休まずに書いても15年くらいかかります。

いや、もし仮に書いたとしても、買う人も読む人もいないでしょうね。
現代のインターネットの時代なら、何とかなるかも知れませんが。

しかし全部読まなくては真理が解らないとか、そういうことではありません。
第41巻「序文」の最後には、次のように書いてあります。

…この物語全部を読了せなくては安心立命の域に到達せないならば、始めより読まない方が気が利いていると思わるる方もありましょうが、決してそんなものではありませぬ。

ただ一巻の物語の中にも宇宙の真理や神の大意志や、修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞もありますから、一冊でも心読せられんことを希望いたします。

要するにこの『霊界物語』は東西両洋における古典や神話に漏れたる点のみを補うべく神様の命のまにまに口述編纂したものであります。

ということなので、気楽に読んで行きましょう。

(この文章は「霊界物語スーパーメールマガジン」2015年1月15日号掲載の文章に加筆訂正したものです)

大石ヨシエ(衆議院議員)は王仁三郎の隠し子説

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月25日

王仁三郎が有栖川宮熾仁親王の落胤(落とし子)だという話はかなり知れ渡って来ましたが(出口恒著『誰も知らなかった日本史』参照)、その王仁三郎にも落胤がいたという説があります。
女性で、名前は大石ヨシエと言います。衆議院議員です。

第二次大戦後に日本で女性の参政権が認められ、昭和21年(1946年)4月の衆議院選挙で39名の女性の国会議員が誕生しました。
そのうちの一人が大石ヨシエ(1897~71年)です。京都府から無所属で出馬し、当選後は日本社会党に入り、昭和30年(1955年)2月の選挙で落選するまで連続5選、約9年間、国会議員として活躍しました。
この大石ヨシエが出口王仁三郎の”隠し子”だというウワサが、その当時からささやかれていたようです。

大石ヨシエは落選した翌年に『あほかいな』という随筆を出版していますが(1956年、鱒書房)、その序から少々引用してみます。

…この凄まじい世の荒波の中で、ヨッちゃん(注・自分で自分のことを「ヨッちゃん」と書いている)は全く身寄り一人なく、ただ足手まどいの八十何才になるつんぼの義母をかかえ、代議士として、
「男なんかクソくらえ。」
と、頑張って来たんや。
 勿論、代議士も大事な仕事や。しかし、これとても、ウチの人生のすべてではない。
 ウチを政治”ノイローゼ”だという奴がいる。しかし、「ヘソ曲り」のヨッちゃんや、今に、みんどぎもなの度胆(どぎも)をぬくような事をしてやろうか、と思っとる。
 そこに、ウチの人生があるんや。
 まあ、みな見とってんか? やったるさかい。…

この序からもこの人の性格をうかがい知ることが出来ますが、彼女は「女野次将軍」と呼ばれていた猛女です。武闘派で、国会で乱闘も繰り広げました。今でも韓国や台湾の国会では議場内で武力闘争が行われるようですが、日本の国会も昔は荒れていたのです。
この性格は、高熊山修業以前の、ヤクザ者とケンカを繰り広げていた上田喜三郎(王仁三郎の幼名)を髣髴させるものがあります。ケンカと言っても、個人的なケンカではなく、他人を助けるための”正義”のケンカです。良く言えば反骨精神が強い、義侠心がある、ということです。

『あほかいな』と、岩尾光代著『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』(1999年、日本放送出版協会)P247-253をもとに略歴を紹介します。メモも兼ねて、少し細かいことも書いて行きます。(ウィキペディアに書いてあることはほとんど『新しき明日の来るを信ず』が元です)

大石ヨシエは明治30年(1897年)2月12日、舞鶴生まれ。仮に王仁三郎の娘だったとしても、大本入りして出口澄子と結婚するよりずっと前、高熊山修業(明治31年2月)よりもずっと前のことです。
しかしこの生年月日や出生地は本当かどうかは分かりません。というのは、捨て子として拾われた、あるいは養女として貰われたらしいのです。
養父は大石熊吉。家は貧しく、ヨシエが小学校を出て間もなく養父が亡くなりました。
この養父は結婚前にヨシエを長女として入籍したようです。そしてその後、養母(名は千代)が、亀岡から舞鶴に嫁いで来たとのこと。かなりワケありですね。
しかも養母は「一人の娘を丹波亀岡に残して再縁」したと書いてあります(『あほかいな』p198、この部分は『政界ジープ』昭和22年10月号の記事の転載)。
娘を亀岡に残して再縁、とはどういう意味? 謎は深まるばかりですが考えても分からないので先に進みます。

養父の死後は養母との二人暮らしでドン底の生活を送りました。
最初に引用した「序」に「ヨッちゃんは全く身寄り一人なく、ただ足手まどいの八十何才になるつんぼの義母をかかえ」と出て来ましたが、かなり苦労したようです。
ヨシエは米も食えないような貧乏でしたが、どうしても勉強がしたくて、19歳で大阪の信愛高等女学校(現・大阪信愛女学院)の編入試験を受けて入学しました。
卒業後は舞鶴に戻り、婦人会を結成して婦人参政権問題をやかましく主唱します。それが原因で、とんでもない女だということで特高警察のブラックリストに載せられたとのこと。
食って行けないので、婦人会の会員に竹細工をやらせたり、消費組合のようなものを作って生活の糧を探し続けました。

そんな時に舞鶴に武藤山治(むとう・さんじ)が遊説に来ました。武藤は実業家で、衆議院議員。実業同志会(後に国民同志会に改称)という政党の会長です。
ヨシエは武藤に見出され、実業同志会に入って、婦人部の常務理事となり、26歳の時(1923年?)、大阪に出て政治活動に身を投じます。
しかしうまく行かずに解散することになりますが、ヨシエは武藤の援助でアメリカに行くことになりました。昭和3年(1928年)32歳から昭和6年(1931年)35歳の時まで3年間、シアトルを振り出しにアメリカに滞在し、社会事業や婦人問題を研究しました。(実業同志会は昭和4年に国民同志会と改称した、昭和7年に解散)
このように若い時代はずっと政治に身を捧げ、浮ついた恋愛話も一切なかったようです。

帰国すると、出口王仁三郎と面会をすることになります。王仁三郎の方から会いたいと申し込んで来たとのこと。
ここは『あほかいな』p201(政界ジープの記事の転載)から引用します。

 内地に帰った彼女は、すぐさま全国各地で講演をやった。
 ここらにも、抜けめなく働く心臓の強さがあった。
 この当時としては珍らしい婦人問題を口にする洋行帰りの婦人である。
 反響は大きく全国に拡がり始めた。
 時も時、大本教の出口王仁三郎が一度会いたいと申込んで来たので、舞鶴の旅館霞月で会見することになった。
 満洲国が誕生した昭和七年の頃で、出口は早速満洲に行く事をすすめた。
 彼女も大本教の宣伝には困った。
 しかし出口も相当な野心があっただけに、そんなことを口にもしない。
 「好きなことをしてくれ。」との條件で、彼女は渡満することになった。
 満洲に渡ると、当時奉天の浪速区にあった大本教奉天支部に身を落ちつけ、婦人身の上相談所をつくったり、奉天新聞に寄稿して婦人問題を論じたりした。
 しかし満洲は当時、軍国調の最も華やかなころで、彼女の仕事もうまくゆかない。
 心臓と政治力ではどうしても面白くゆかなくなった時、昭和九年の夏に内地に舞いもどった。

昭和10年には第二次大本事件が起きていますので、王仁三郎との直接の関わりは、この時だけのようです。
大石ヨシエは王仁三郎をどのように見ていたか? 人物評が『あほかいな』p84-86に書いてあるので引用します。

 相手が女であろうと何であろうと、いつもエロ話ばかりしていた。しかし、そのエロ話の中に味のある処世訓を説くという、一風変った教祖であった。
 凡人の如くして非凡、如何なる相手にも差別をつけず、子供の如く天真爛漫で一つも威張らないという、大した傑物であり、一世の英雄であった。
(中略)
 ところで、大本教は、不思議なことに、世継ぎは代々女ばかりで、男の子が生れないというのである。
 初代、出口なお、二代、出口すみ、三代、直日といって、女ばかりである。王仁三郎の子供はその他、梅野、八重野、尚江、澄野江といって、これまた女ばかりである。
 どういう加減か知らぬが面白い系譜である。”三千世界一度に開く梅の花”とうたい、霊界物語を書いた凄いエネルギッシュの王仁三郎が死んだ時には、亀岡から綾部まで延々二十五里、三万の信者が、タイマツをかかげて、夜通し、牛のひく霊枢車のあとに続いたというのだから、如何に徳の高い人だったかが偲ばれよう。

大石ヨシエの王仁三郎評は、「エロ教祖」だけど傑物・英雄──彼女が王仁三郎を尊敬していたことが、この文章からうかがえます。
大本の世継ぎ(歴代教主)は女ばかりで、王仁三郎の5人の子はみんな女ばかり(澄子との間に2人男子が生まれているがいずれも夭折している)と力説していているのは、もう一人の娘である自分の存在を暗にアピールしているようにも思えます。

ヨシエが王仁三郎に依頼され満洲に渡った理由は何でしょうか?
王仁三郎も「好きなことをしてくれ」だなんて、そんな理由で満洲に行かせるわけはないでしょう。
「実は王仁三郎の密命を帯びて満洲に渡った」と勘ぐってみましょう。
それは満洲でヨシエが、大本史にも登場する川島芳子や愛新覚羅溥儀と交際していたからです。(ウィキペディア:川島芳子愛新覚羅溥儀

「男装の麗人」「東洋のマタハリ」こと川島芳子と親しく交際していた思い出が『あほかいな』p91-94に書いてあります。一緒に奉天や新京(満洲の首都。現・長春)のダンス・ホールで踊ったとか、恋の悩みを打ち明けられたとか、かなり親しかったようです。
そして、満洲帝国の溥儀皇帝やその皇后とも親交があり、二人は日本を恨んでいたと記されています。

川島芳子や愛新覚羅溥儀(宣統帝)は、大本史にも登場します。出口京太郎著『巨人 出口王仁三郎』(1967年、講談社)p348-351から引用します。

 昭和六年九月二十八日、大陸浪人の川島浪速(なにわ)と東洋のマタハリこと芳子(粛親王の娘)が亀岡へ王仁三郎を尋ねてきた。王仁三郎は人ばらいのうえ面会する。会談は川島浪速がツンボのため筆談でおこなわれた。いまも残されているそのときの用紙に、当時のもようの一部をのぞいてみるとつぎのようになる。
「神示によれば、宣統帝(注・溥儀)、日本へひとまずご来朝ある方、完成するとのことです。今度へたをすると宣統帝の没落になりますから十分考えてやってください」
「うっかり話すと、つまらぬ者に利用さるるおそれあり、大本はすべて神示によりて動いております。東京にゆきご面会したのも神示によりてしたのです。わたし一個人の考えでは動いていません。……まず日本ヘ宣帝をかくし、ときをみて……」
「いよいよこちらへお迎えすることに確定すれば、さらに準備をするつもりですから速報を……」
 なにやら興味しんしんの場面である。

王仁三郎が川島浪速や川島芳子と面会したの昭和6年9月28日なので、満洲事変が勃発した十日後のことです。
大石ヨシエが満洲に渡った(昭和7~9年)のはその翌年になります。
満州帝国が建国宣言をしたのは昭和7年3月1日なので、ちょうど満洲帝国が誕生した頃に大陸に渡ったことになります。
王仁三郎の考えとしては、あくまでも満洲人民の支持を得た上で、溥儀を皇帝にして建国しようとしていたようです。しかし結局は日本軍部の影響下で、大日本帝国の傀儡国家として建国されてしまいました。溥儀夫妻が日本を恨んでいたというのも、こんな傀儡国家では操り人形だからでしょう。
引用文に「神示によれば、宣統帝(溥儀)、日本へひとまずご来朝…」と出てきましたが、実際に溥儀が来日したのは満洲建国後の昭和10年4月6日であり、軍部に利用されないように一時的に天恩郷に匿おうという王仁三郎の経綸は頓挫したことになります。

この後をもう少し引用します。

(中略)
 王仁三郎のこの問題に対する考えは、「満州民衆の総意にこたえて溥儀が皇帝の位につくというかたちで、第三者の策謀的な介入はいっさい排除しなくてはならぬ。そのためには、しばらく亀岡天恩郷にかくれて、溥儀をとりまく策謀の渦から離脱していなくてはならぬ」とするもので、そのため、「大正十五年(一九二六)十一月、栗原白嶺(注・大本幹部)を天津(テンシン)に派遣し、同地に蟄居(ちっきょ)していた宣統帝に会見させて、その意をつたえ」(『七十年史』)というものである。
 こういったことが川島浪速との筆談などにつながるのだが、軍部に溥儀をよこどりされ、業をにやしてこの問題から手を引くにいたるのだ。なんのかのと利用だけするが、つごうしだいできたないやり口をつかう彼らにあいそをつかしてしまったのだろう。
(中略)王仁三郎は、溥儀問題に関する力ずくの軍部のやりかたや策謀的な手段を強く非難した。それで、大本や提携団体である大陸の各勢力が、親分の怒りに影響されてどんな動きにでるかもしれない。そうなったら困るので親玉のワニを消してしまえ、というのである。これは権力の正体とかいうどこにでもある話だ。

 宣統帝問題について、王仁三郎をめぐるさわぎの生じるのは一面むりもない点がある。王仁三郎の力は大きく、大陸での大本系の勢力も絶大であるし、なにより現地人の信奉ぶりがすごかった。だからあらゆる問題に王仁三郎の影響を利用するのは得策で、この点がいろいろな動きのでる原因でもある。軍部もその例にもれずというところだ。それから、満州に「中和国」とか「明光国」とかいう独立国建設の運動がうずまいていて、道院、紅卍字会の連中もこれにかかわりあいがあった。それでこのうずが王仁三郎のところへも流れてくるわけだし、政府や当局がこれを危険視するという段どりにもなっていく。
(中略)
 王仁三郎のいうように、大陸問題は野心家たちの策謀や力ずくで失敗し、また、彼の指摘どおり、満州事変を契機として、日本は国際連盟脱退などで孤立し、世界を敵にまわしていった。そして、これらを導火線に中国との本格的な、戦いに突入し、やがてあの太平洋戦争の惨劇をひきおこすにいたるのだ。日米戦、世界戦などに関する彼の予言がかくして的中していくのである。
 ついでながら、「つまらぬ者に利用され、へたすると宣統帝の没落になる」といった王仁三郎の警告もそのとおりとなってしまった。王仁三郎の計画が成功して、もし溥儀が亀岡の天恩郷に潜入し雌伏していたら、彼の一生もずいぶんちがうものになっていたことだろう。いや、溥儀の運命だけではない。アジアの歴史、日本の運命、そして世界史の一ページさえもちがったものになっていたかもしれないのだ。

これを読むと、満洲帝国が軍部の影響下で建国されてしまったので王仁三郎はこの問題から手を引いた…という見解が記されています。しかし表向きは手を引いたのかも知れませんが、実は完全に手を引いたわけではなく、満洲で秘かに何らかの経綸を行うために大石ヨシエを派遣した…と考えることも出来るのではないでしょうか。つまり王仁三郎のエージェントとして、川島芳子や溥儀と接触させたわけです。
少なくとも、「好きなことを」させるために満洲に派遣するはずはないでしょう。王仁三郎は何らかのミッションを授けたのだと思います。

さて大石ヨシエは昭和9年(1934年)に日本に帰国した後、政治への道は忘れて心機一転し、商売に熱中します。化粧品の製造卸です。
東京・銀座に店を構え、十年間、空襲で焼けるまで続けました。
戦後は再び政治の世界に入り、初の女性議員として活躍することになります。
社会党の右派に所属していましたが、時には同僚の社会党議員をも批判するような野次将軍で、毒舌家でした。
『あほかいな』p206(政界ジープの記事の転載)には男性議員の言葉として「大石ヨシエに教養の衣をつけさしたら、あの姿さえ男にも稀にみる政治家だぜ」「ありゃ全く正体の分らん怪物みたいな女や」と載っています。そういう豪傑な女だったわけです。

落選して政界を引退(58歳)した後は、恵まれた人生ではなかったようです。郷里の舞鶴には戻らず埼玉県深谷市でひっそりと暮らし、亡くなる4~5年前から脳軟化症になり、身体が不自由になってしまいました。結婚はしておらず、子供もいないので、一人暮らしです。
昭和46年(1971年)5月、ガス中毒事故が起こり自殺かと騒がれます。そんなことはしないと本人は否定しましたが、あまりにも孤独な生活を送っていたので、自殺と間違われたのです。
そこで愛知県師勝町(現・北名古屋市)に住む姪夫婦が「一人暮らしは危ない」とヨシエを引き取るのですが、その翌月、6月7日に亡くなりました。享年74歳。

ウィキペディアに大石ヨシエの写真が載っていたので転載します。

大石ヨシエ

なるほど。王仁三郎に似ていると言えば似ていますね。ぽっちゃりした感じが。

痩せている時の写真が岩尾光代著『新しき明日の来るを信ず』p249に載っています。

大石ヨシエ

こちらは、どうでしょうかね? 似てますかね?
もちろん、親子だからと言って必ず似るわけではないし、親子でなくても似てる人もいます。

『新しき明日の来るを信ず』p251に
「スケールの大きな行動がそう思わせたのだろうか、代議士になってから「出口王仁三郎の落とし胤」だというウワサもあった」
と書いてあります。どうしてそういうウワサが立ったのかは不明です。スケールの大きな行動をしただけでは、そういうウワサは立たないでしょう。誰が言い出したのか? それとも本人がリークした??

仮に王仁三郎の娘だったとしたら、産んだ母親は誰でしょう?
王仁三郎が澄子夫人と結婚する前に、判明しているだけで2回、王仁三郎は事実婚をしています。

一度目は明治30年の春、25~26歳の頃です。
ある家の一人娘と結婚して、婿養子になりました。
斎藤亀次郎の長女・斎藤しげの です。
彼女も養女なんですが、他に子供がいないので、跡取り娘です。喜三郎も長男で跡取りのため、上田家では婿には出せないということで、結婚は難航しました。しかし「喜三郎は上田家は継がぬ。大きくなったら養子にやれ」という祖父の遺言の言葉あり、それで喜三郎の両親は婿養子に出すことを決断したのです。
ただし入籍はしていません。
しかしこの結婚はわずか百日で破綻し離縁しました。

その後、侠客の親分の娘と内縁関係になっています。多田亀吉の娘・多田琴です。
しかしこれもしばらくして別れました。

(次を参照)
大地の母 第二巻:百日養子
王仁三郎の短歌:養子百日親子髪梳野送

この年の7月に寝たきりがちだった父親が病死しますが、死ぬ前に結婚して父親を安心させようと、喜三郎はあせっていたのかも知れませんね。
大石ヨシエは戸籍上は明治30年2月生まれですが、実際には31年生まれとするならば、この2人のいずれかが母親である可能性があります。
しかしそうではなく、八木弁という女性の娘だという説もあります。八木弁はもっと若い時に出会った女性です。
王仁三郎の恋愛エピソードは、2件の事実婚以外に、判明しているものだけで次の4件あります。

明治24年 20歳 初恋の斉藤蘭が結婚してしまい、失恋
明治26年 22歳 八木弁と恋愛
明治28年 24歳 安達志津江と恋愛
明治29年 25歳 斉藤いの と恋愛

しかし・・・恋多き男子ですね。私の20代とは大違いですよ (^_^;
八木弁の父親は八木清之助と言う武士です。皇女・和宮が将軍・家斉と結婚することになり、江戸に降嫁するときに、和宮の供として一緒に江戸に下っています。
度変窟烏峰(度偏屈烏峰、どへんくつうほう)というペンネームを持ち、喜三郎の冠句の師匠でした。
大石ヨシエはこの八木弁と喜三郎の間に出来た娘だという説もありますが、定かではありません。

そもそもこれは、王仁三郎が仕組んだ偽隠し子騒動の可能性もあります。
『巨人 出口王仁三郎』p213-214、p285に次のような偽隠し子騒動のエピソードが書いてあります。王仁三郎が労働活動家の三田村四郎(ウィキペディア)という男の娘を、自分の子供だと偽って養育していたというのです。

…三田村四郎が、あるとき、官憲に追われ国外ヘ高とびした。三田村には乳飲み子があり、王仁三郎はその子を託されるはめになる。
 引き受けたからにはなんとしても赤児をたいせつに育てねばならない。しかも、三田村の子であることをあくまで伏せて。
 こんないきさつがあってからまもなく、大本の内外に妙なうわさが流れはじめた。「聖師さんにかくし子があるそうや」、「ワニさん女子に手をつけて、子生ましよったそうや」。うわさはだんだん高くなり、やがて、すみ夫人の耳にもはいる。すみ夫人が当否を問いただしたところ、意外にも王仁三郎はこれを認めてしまった。さあ、それからがたいへんだった。
 (中略)いかに太っ腹とはいえ、夫人は猛烈におこりだす。王仁三郎は、とみれば、「すまん」「かんにんしてくれ」と平身低頭の一本槍である。娘の直日の思い出によると、すみ夫人は第二次大本事件前まで三田村の子とは知らなかったそうだ。
 かくし子うんぬんで世間がなにかととりざたをする状態が十何年とつづくのであるが、終戦後、三田村が地下から顔を出すと、事態はガラッと変わってしまった。というのは、いままで、王仁三郎のかくし子だとばかり思っていた問題の娘と三田村が、名のりをあげて父娘の対面をおこなったからである。しかも、あのときあずかった赤児はもうすっかり娘に成長しているではないか。
 ことの仔細は、赤児の素性の秘密を守るためと、養育の万全を期するため、王仁三郎がうった芝居だったのだ。王仁三郎はさる信徒に、「わしが失敗してもたんや」、と赤児をあずけ、「ないしょにしといてや」と頼んだ。熱烈なワニ・ファンの信徒は、「聖師さんの子や」とこの娘を育てあげたわけだが、「ないしょ」のほうはそうはいかなかった。それで、「自分は聖師さんの子や」と、当の子ども自身が大きくなるまで信じこんでいたのである。これでは周囲が真(ま)に受けてワイワイいうのもむりはない。
 ついでながら、この娘は結婚して、いまはもうすっかり立派なお母さんになっている。

なるほど。こういうことを、王仁三郎はしていたのですね。
大石ヨシエも、これと同じかも知れません。訳あって育てられない誰かの子供を王仁三郎が預かり、舞鶴の大石熊吉(ヨシエの養父)に託したのかも知れません。「ワシの子や」と言って。

果たして真に王仁三郎の子なのかどうかは知るすべもありませんが、王仁三郎にミッションを与えられて満洲で神業奉仕されたことは事実だと思います。
その顕彰の意味を込めて、一筆記しました。

「芸術は宗教の母なり」の意味

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月24日

前回は王仁三郎の名言の一つ、「みろくの世には宗教は不要になる」の意味について書きました。

今回は、これもまた名言の一つである、「芸術は宗教の母なり」の意味についてです。

この文言だけ聞くと、文字通り「すぐれた芸術から、宗教が生み出される、ということ」なんだなと思ってしまいますが、王仁三郎の発言意図はちょっと違います。

現代の学者は、『宗教は芸術の母なり』とか、『宗教が芸術を生むのだ』と言っているそうである。
私はそれと反対に『芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む』と主張するものである。

洪大無辺の大宇宙を創造したる神は、大芸術者でなければならぬ。天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である。

宗教なるものは神の創造力や、その無限の意志のわずかに一端を、具体的に人の手を通し口を徹(とお)して現わされたものに過ぎない。
〔霊界物語 第36巻序文

瑞月(注・王仁三郎のこと)はかつて芸術は宗教の母なりと言ったことがある。
しかしその芸術とは、今日の社会に行わるる如きものを言ったのではない。

造化の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、いずれもみな神の芸術的産物である。
この大芸術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならぬ。

瑞月が霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与えて、以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく遊ばしめむとするの微意より出たものである。
そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にある事を覚り、本書を出版するに至ったのである。
〔霊界物語 第65巻総説

私は子たる宗教を育てんがために、永年微力をつくしたが、子はどうやら育ち上ったらしいので、この方面は子に譲り、昭和三年三月三日から、親たる芸術を育てんと努力しつつあるのである。

明光社(注・大本の外郭団体で芸術の結社)を設けて、歌道を奨励し、大衆芸術たる冠句を高調し、絵を描き文字を書き、楽焼をなし、時に高座に上って浄瑠璃を語り、盆踊りの音頭をさえも自らとっているのである。

神の真の芸術をこの土の上に樹立することが、私の大いなる仕事の一つである。
〔月鏡313「宗教より芸術へ」〕

仏像だのイコンだの讃美歌だの、たしかに信仰の中から沢山の芸術作品が生み出されていますが、そういう人間が作った芸術ではなく、神が創ったこの大自然という芸術から宗教心が生まれてくるのだ…ということを、王仁三郎は言いたいようです。

そしてその芸術(神)と宗教(人)とが合一したときに無限の力が発揮されるのでしょう。

(この文章は「霊界物語スーパーメールマガジン」2014年10月16日号掲載の文章に加筆訂正したものです)

「みろくの世には宗教は不要になる」の意味

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月23日

王仁三郎の名言の一つに「みろくの世には宗教は不要になる」というものがあります。
宗教の教祖様のクセに、宗教が不要になるだなんて、まるで自己否定のようなことを言っているのだから驚いてしまいます。

その発言の出所は「宗教不要の理想へ」という題名の文(講演録)で、機関誌『神の国』大正13年(1924年)1月号に掲載されたものです。『出口王仁三郎全集』や『出口王仁三郎著作集』にも収録されており、霊界物語ネットで読むことが出来ます。
『出口王仁三郎著作集 第二巻』「宗教不要の理想へ」
その発言を引用してみます。

宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。主義・精神が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。今までより広い大きい考えで、世を導く精神にならねばならぬ。
大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神様の大本、三千世界の大本であることを取り違いしてはならない。(中略)
かかる次第で、神は元は一つの神に統一されているのであるから、別々に争うベきはずのものでない。

なるほど。たしかに「宗教はみろくの世になれば無用」だとか「宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目」だとか、宗教を否定しているようなことを言っていますね。

とはいえ、神への信仰心がなくなるわけではないようです。
「主義・精神が第一」とか、「名は少しも必要ではない」とか、「別々に争うベきはずのものでない」とか、つまりセクト争いがなくなるということ──現在のように無数の宗教宗派に分かれて「自分が正しい」「お前が間違っている」という善悪正邪の醜いセクト紛争がなくなる、そんなことをやっている間はダメだ──という意味のようです。

この前後の文章をもう少し読んでみましょう。

大本は筆先にある通り、世の中が至粋至純であれば、神様の教えは要らぬのであります。(中略)

愛は善のため、愛のための愛であって、決して自己のための愛であってはならぬ。
戦争に立って国のためになったと言うが、それも実はやはり自己愛の拡張に過ぎぬのであって、も一つ大きい「世界愛」でなければならぬのであります。
人類人主義・万有愛の神愛でなければならぬ。(中略)

しかしながら、大本は世界的のものであって、神は万有を愛するのが主意であるから、固すぎて孤立する事は駄目である。
日本は世界に孤立し、大本は日本から孤立している現状である。(中略)
エスペラント語やローマ字を始めるのも、この精神に外ならないのである。(中略)

神意に反いていないと信ずるから、ローマ字やエスペラントを奨励して、世界的に進んで行かねばならぬのであります。まずローマ字やエス語を知り、余力を以て日本人全般に押し拡げ、やがて世界各国にこの運動を及ぼしたいと覚悟しているのである。(中略)

祖先以来、愛国主義が誤って排他に陥り、自己愛になってしまっては善くない。
世界同胞の考えを持たねばならぬ。排他は神意に反することであって、今の時代、小さい事を言っているようなことでは駄目である。

しかし日本人としては、兵役の義務・納税の義務の如きものには、よくその義務に服すベきであって、誤解があってはならぬが、これだけでなく、さらに神の愛の「情動」がなければいかぬのである。

真の愛は親の愛であって、理智を伴わぬものである。
神の愛は真の愛であって、俗に謂う神の罰など、神は決して罰を当てるものではない。

罰というのは人間の作った法律であって、神の愛はそんなものとは違うのである。
すべて善悪不二のもので、善悪超越する時、そこに初めて真善があるのである。
国法の定むる善悪にまず従いつつ、さらに神意を考えて行かねばならぬ。(中略)

世界を愛し、人類を愛し、万有を愛する事を忘れてはならぬ。
善言美詞(ぜんげんびし)を以て、世界を言向和(ことむけやわ)す事が、最も大切である。

神の前のみでなく、人の前でも同様に善言美詞を用いねばならぬのである。
神に救われんとして、かえって神に反くことが少くないから、決して他人を排したり批難したりするものでない。

祝詞のことばが真の善言美詞であって、実は今の日本語も外国語を輸入した言葉が大部分であるから、中途半端の日本語は決して善い事はないのであって、外国語を排するならば、現今の日本語も同様の意味で外国語として排斥せねばならぬわけになってしまう。

こんなわけで、ローマ字やエス語を学んで、早く五大洲に共通の言語を開くのが必要なことであるから、宗教はみろくの世になれば無用のものであって、宗教が世界から全廃される時が来なければ駄目なのである。

主義・精神が第一であって、大本であろうと何であろうと、名は少しも必要ではないのである。

今までより広い大きい考えで、世を導く精神にならねばならぬ。
大本は大本の大本でもなく、また世界の大本でもなく、神様の大本、三千世界の大本であることを取違いしてはならない。(中略)

かかる次第で、神は元は一つの神に統一されているのであるから、別々に争うベきはずのものでない。
すべての争い・悪み・妬みを止めて、善言美詞を以て言向け和さねばならぬから、世界を言向くる世界共通語のエス語を第一に研究せねばならぬ。
ローマ字もまた真の善言美詞の日本語を保存して行く上に、大なる必要があるのである。
総じて前述の世界愛・万有愛の神の愛に押し拡げて、大きな精神になって貰わねばならぬのであります。

王仁三郎は、宗教とか、国というもの自体を否定しているわけではなく、一宗一派、一国一城に閉じ籠もって、排他的になってしまうことを否定しているのです。

エスペラント語というのはポーランドのザメンホフという人が国際補助語として開発した人造言語です。(詳細はウィキペディアを)
これは単なる言語ではありません。争いを無くすためにはまずコミュニケーションを取る必要がある、そのためには異なる国の間・民族の間で言葉が通じなくてはいけない考えて開発したのです。ただの言葉ではなく新精神運動の一種なのです。
王仁三郎は大正12年(1923年)から、エスペラントの普及活動に取り組み始めました。
また同じ頃から、日本語のローマ字表記にも取り組み始めましたが、これも大本・日本を国外の人に知ってもらうために他なりません。
また他宗教との提携や、宗教連合会を結成するなど、各国・各宗教の相互理解を推進して行きました。

王仁三郎は宗教を否定しているのではなく、逆にすべての宗教を肯定していると言ってもいいでしょう。
すべての宗教の信者になれば──結果として、自分の中で、宗教というセクトはなくなるわけです。
それがミロクの世です。

たいていの人は一つの国籍しか持っていないでしょうけど、すべての国の国籍を持つ超多重国籍者になったらどうでしょうか?
──もはや国境という垣根はなくなりますよね? どこの国に住むのも自由です。
それがミロクの世です。

現実には、自分の国しか・自分の宗教しか知らない人が大多数です。
そして自分の国が正しい・自分の宗教が正しいと思い込んでいるのが現状です。
そうして「自分が正しい」「お前が間違っている」という迷路の中をみんなでグルグルと回り続けているのです。
その迷宮からの脱却を王仁三郎は唱えているのです。

しかし、一宗一派、一国一城に閉じ籠もってしまうのには理由があります。そりゃあ、小さな精神しか持っていないということもありますが、他者から攻撃を受けたとか、自分の生活で精一杯で他人のことなんて構っていられないとか、いろいろあるわけです。

宗教が不要になる世界を創ろうというのは、引き籠もらなくてもいい世界を創ろうといことに他なりません。

(この文章は「霊界物語スーパーメールマガジン」2014年10月13日号掲載の文章に加筆訂正したものです)

高橋和巳『邪宗門』と出口王仁三郎は何の関係もありません

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年05月22日

先日、「木嶋佳苗死刑囚がブログで激怒?」というニュースを見ました。
木嶋死刑囚は男性3人を殺したとして去る5月9日に最高裁で死刑判決が確定(本人は無罪を主張)しましたが、彼女をモデルにして書いたという『BUTTER(バター)』という小説(2017年4月、新潮社)に激怒しているというのです。

木嶋佳苗死刑囚がブログで激怒? 「私の逆鱗に触れた!」(デイリー新潮)
バターって何やねん 2017年5月11日(木嶋佳苗の拘置所日記)

著者は柚木麻子(ゆずき・あさこ)氏という、山本周五郎賞なんかを受賞している作家です。
木嶋死刑囚は、自分をモデルにしたかのように本を宣伝しているクセに作中の主人公は全然自分と違う、誤解されてしまう、ということで怒っているようです。

本の帯には「木嶋佳苗事件の闇について、柚木さんでなければ描けなかった」と佐藤優氏の書評をしっかり載せており、この本は木嶋死刑囚を主人公にしていると読者に宣伝していることは明かです。
その当の本人にしてみれば、デタラメばかり書かれて怒り心頭なのは、そりゃそうでしょうね。

このニュースを見て、『邪宗門』という小説を思い出しました。
著者は高橋和巳(たかはし・かずみ、1931~71年)という、比較的有名な作家です。(ウィキペディア
学生運動・安保闘争が真っ盛りの1965~66年に『朝日ジャーナル』に連載され、後に単行本化されました。
この『邪宗門』が大本事件をモデルにした小説だということで有名なのです。
今まで何人もの人に言われましたよ。「王仁三郎って・・・あの『邪宗門』の?」と。
私も20代の時に、そういうことを聞いて読んでみたんですが・・・全く違いますよ。王仁三郎・大本とは何の関係もありません。

絹織物の産地として知られる(綾部ならぬ)「神部(かんべ)」という町に本部を構える(おほもとならぬ)「ひのもと救霊会」という宗教団体が舞台で、開祖は(出口なおならぬ)「行徳まさ」という女性で、二代目が(王仁三郎ならぬ)「仁二郎」という養子だという設定は、明らかに大本を意識しています。
しかし、著者が大本事件にヒントを得て創作したのは事実とはいえ、中味は全く別物です。
小説としてはとてもおもしろいですが、著者が設定した「ひのもと救霊会」という宗教団体は、まったく稚拙なもので、入信したいとは思いません(笑)
こんなのが王仁三郎だと思われては、たいへん迷惑です。

小説としてはおもしろいので、当時からいろいろ話題になっていたと思われます。おそらく、この小説のかなりの部分が史実であると思い込んでしまった人も多かったと見え、単行本の後書きで著者は、実在の宗教とは何の関係もない、ということを強く書いています。
そこの部分を引用してみます。

 発想の端緒は、日本の現代精神史を踏まえつつ、すべての宗教がその登場のはじめには色濃く持っている〈世なおし〉の思想を、教団の膨脹にともなう様々の妥協を排して極限化すればどうなるかを、思考実験をしてみたいということにあった。表題を『邪宗門』と銘うったのも、むしろ世人から邪宗と目される限りにおいて、宗教は熾烈にしてかつ本質的な問いかけの迫力を持ち、かつ人間の精神にとって宗教はいかなる位置をしめ、いかなる意味をもつかの問題性をも豊富にはらむと常々考えていたからである。ただ、いかなる想像力も、全くの真空には羽撃(はばた)けず、いかなる夢幻の花も樹根は現実に根ざさねば枯死する。それゆえに、この作品の準備期間中、私は日本の現存の宗教団体の二、三を遍歴し、その教団史を検討し、そこから若干のヒントを得た。とりわけ、背景として選んだ地理的環境と、二度にわたる弾圧という外枠は、多くの人々にとって、ああ、あれかと思われるだろう類似の場所および教団が実在する。だが、ここに描かれた教団の教義・戒律・組織・運動のあり方はもちろん、登場人物とその運命のすべては、長年温め育て、架空なるゆえに自己自身とは切り離しえぬものとして思い描いた、我が〈邪宗〉のすがたであって、現存のいかなる教義・教団とも無縁であることを、ある自負をもって断っておきたい。ここに描いたものは、あくまで「さもありなむ、さもあらざりしならむ」虚実皮膜の間の思念であり、事件であり、人間関係である。
〔高橋和巳『邪宗門(下)』1966年、河出書房新社、P321〕(太字は飯塚)

このように著者が、実在する人物や団体(王仁三郎・大本)とは無関係だよと明言しているのですが、「邪宗門は大本事件がモデル」という情報が一人歩きしてしまい、読者はそういう先入観で読んでしまうのです。
そして、「あとがき」なんか読まない人はたくさんいます。
実在する人物・団体と無関係だと主張したいのであれば、その告知は「あとがき」ではなく巻頭に掲げ、人物の名前など設定も誤解が生じないように似たようものではなくもっと違うものに変えるべきでしたね、高橋さん。

しかしこれは、表現者にとって悩ましい問題です。
私も若い頃は小説家・脚本家志望でしたので、こういう問題はとても悩ましいということはよくわかります。

小説にせよ映画にせよ、何らかの事実をもとに発想する場合が少なくありません。
そして、実在の人物や事件や場所を出した方が、リアリティが増して、作品として面白味が増すのです。
それにマーケティング的にも、「木嶋佳苗をモデルにした」とか「大本事件をモデルにした」とか、すでに知られている有名な何かを持ち出した方が、世間の注目を引きやすいし、ね。

そうやって実在する何かを出してしまうと、今度はそれに対する誤解が生じる可能性が出てしまいます。
表現者の方で、誤解が生じないように配慮すべきなのは当然ですが、あまり配慮しすぎると表現の自由度が小さくなって創作活動がつまらないものになってしまいます。

これは読者の方でも注意する必要があるでしょう。
小説・映画のようなフィクションはもちろん、ニュースやドキュメンタリーのようなノンフィクションにしても、しょせんは作者のフィルターを通したものの見方であり、作品としておもしろくするために脚色・演出がなされているはずです。
事実だけを報道している場合でも、何を報じて何を報じないか、情報を取捨選択することで、印象操作されているのです。
それを前提にして小説やニュースを読むべきでしょう。