月別アーカイブ: 2015年12月

霊界物語の世界地図で北はどっち?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年12月30日

霊界物語は35万年前の太古の神代の物語・・・という時代設定になっています。
現代の地理とは地形が大きく異なるため、霊界物語の地名を現代の地名に当てはめようとしても、少々無理が出てきます。

しかしそれにしても・・・東西南北が真逆になっていたりする場合があるのが不可解です。

たとえば1巻29章に「天保山(てんぽうざん)のはるか東北にあたって天教山というのがある」と書いてありますが、天保山は今の日本海(山が陥落して海ができた)、天教山は富士山です〔1巻31章〕。
しかしどう考えても、富士山は日本海の東「北」ではなく「南」ですよね?

他にも、28巻の台湾物語で、新高山の「東南」に日月潭(じつげつたん)があるという設定になっていますが〔28巻3章〕、現実の日月潭は新高山(現在の名は玉山)の「」にあります。

ここでも南北の位置が逆になっています。

東西が逆のパターンもあります。

たとえば8巻の南米物語で、宣伝使の淤縢山津見(おどやまづみ)や蚊々虎(かがとら)が、ヒルの国(ペルー)からブラジル峠を越えてハルの国(ブラジル)に向かいますが、「ブラジル山を西へ下り行く」と書いてあります〔8巻16章〕。
しかし現実の地理では、ペルーの東にブラジルがあります。

また9巻ではウヅの国(アルゼンチン)から淤縢山津見の一行が、照山峠(てるやまとうげ)を「」に向かって下ってテルの国(チリ)へ進みますが〔9巻14章〕、地図をどう見てもチリはアルゼンチンの「西」にあります。

南米

このように東西あるいは南北が現実の地図とは逆になっているケースが、探せば他にも沢山見つかると思います。

これは一体何故なんでしょうか???

ポールシフトが起きたのかな???

(この記事は2010年8月7日にブログ「霊界物語の新常識」に掲載した記事を加筆訂正したものです)

大笑い・高姫

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年12月29日

霊界物語を読んでいると、思わず笑ってしまうシーンに出くわすことがあります。

今回紹介するシーンは、霊界物語の悪党No.1の高姫が、死んで中有界(八衢)に行き、そこで子分のシャルと口喧嘩をします。そのシャルのセリフで思わず笑ってしまいました。

高姫は悪党なんですが、あまりにも悪党過ぎてその言動が笑ってしまうのです。たとえて言うと、タイムボカンのマージョ様一味のようなかんじです。

日の出神(ひのでのかみ)の生き宮」(救世主の意)を自称して威張り散らす高姫に対し、子分のシャルは呆れ果てて次のようにこぼします。(注・現代文に書き直してあります)

高姫さま、貴女のおっしゃる事は、一から十まで間違いだらけじゃありませんか。
一つだって貴女のおっしゃった事が的中した事が無いじゃありませんか。
よう、それほど間違った事を言っておいて、自分から愛想が尽きない事ですな。

……明日は日輪さま(お日様)を出してやろう、もしこれが間違ったら日の出神はこの世におらぬぞよ……と啖呵(タンカ)を切っておきながら、その日になるとザアザアと雨が降り、そこらが真黒けになったじゃありませんか。

その時になってお前さまはどんな顔をなさるかと思えば……アア日の出神様、ご苦労様でございます。日輪様がお上がりなさらないのもご無理はございません。この高姫のそばには身魂(みたま)の曇った者(シャルのこと)がシャッついておるから、しょうがございません……とか何とかうまい理屈をつけて澄ましこんでござるのだから、私も愛想が尽きました。

よう考えてごらんなさい。たとえ私が極悪人であろうとも、一人のためにお日様が出なかったり、空が曇ったりするような道理がありますか?
万一、私に曇りがあるために天地が曇るのなら、私の一挙一動は天地に感動しているようなもの。
私はそんな偉い者じゃありますまい。
お前さまは私の悪口を言いながら、私を天地まれなる類なき英雄豪傑にして下さったようなものだ。
〔第57巻第9章「婆娑」〕
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm5709#a123

自己中心的な人というのは、みんなこんなかんじですね。その場その場で都合のいいことを言うので、理屈が噛み合わなくなって来ます。

悪党だけど笑ってしまう、高姫のキャラクターがよく分かるシーンでした。

(この記事は2009年12月23日にブログ「霊界物語の新常識」に掲載した記事を加筆訂正したものです)

「笑いの座」と「言論自由の日」

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年12月28日

霊界物語第67巻第4章に「笑いの座」のことが書かれてあります。

バラモン教の大教主・大黒主(おおくろぬし)が覇権を握る月の国(インド)が舞台です。

「ハルの湖(うみ)」という大湖水があり、そこに浮かぶ船上で「笑いの座」が開かれました。

この地方の風習として、人々いずれも閑散な時には無聊(ぶりょう)を慰むるために、笑いの座というものが催されることがある。
笑の座に参加する者は、いずれも黒い布で面部を包み、何人(なにびと)か分からぬようにしておいて、上は王公より下は下女下男の噂や、国家の現状や人情の機微などを話し、面白く可笑しく、罵詈嘲笑を逞しうして、笑いこけ、互いに修身斉家の羅針盤とするのである。
さすが権力旺盛なる大黒主といえども、この笑いの座のみには一指を染むることも出来なかった。
笑いの座は庶民が国政に参与することのない代わりに、その不平や鬱憤を洩らし、あるいは政治の善悪正邪や、国家の利害得失までも、怯めず臆せず何人の前にても喋々喃々(ちょうちょうなんなん)と吐露することを、不文律的に許されていたのである。
第67巻第4章「笑の座」

黒い布で顔を包むという、要するに匿名座談会です。つまり現代だと、2ちゃんねるなどの匿名掲示板がこの「笑いの座」の機能を果たしているのではないでしょうか?

王仁三郎が説く未来暦である「十ヶ月暦」の中にも、笑いの座と似たような「言論自由の日」が設けられています。

まず一ケ月を三十五日と定める。(中略)神の道からいうと、三五即ち「あなない教」に因縁をもつ。三五教は天地惟神の大道である。
三十六日目は、ミロクの教であるから、この日は週に加えず祭日とする。
隔月に三十七日目をもつわけであるが、その日は閑日と称して言論自由の日とする。あたかも霊界物語中にある笑いの座の如く、その日はいかなる人がいかなる言論をなすとも自由であって、何らの制裁をも受けないことにする。
〔玉鏡「十ケ月暦」〕

言論の自由がない時代(今でも言論の自由がない国がありますが)では、たしかにこういう行事も必要なのかも知れません。人々の不平不満、欲求不満を解消するためのガス抜きとしての効果があると思います。
ガス抜きを封じ込めてしまうとガスが溜まって行き、いつかそれが爆発(革命とか暴動とか)してしまうからです。

しかし現代のように言論自由の社会になってもまだ「言論自由の日」は必要なのでしょうか?

旧来のタブー(天皇や権力に対するタブー等)はもうほとんど消滅したように思います。何でも言いたい放題です。

しかし新たなタブーが生れています。「人種差別」や「被差別部落」「障害者」などに対する発言は注意が必要です。「ヘイトスピーチ」だとか「人権侵害」と糾弾されて、社会から抹殺され、刑罰を受ける可能性もあります。

「言論自由だからといって、他人の人権を侵害する発言が許されるはずがない!」と多くの人は思うことでしょう。

しかしまあ、どうなんでしょうかね??

昔から、善と悪のボーダーラインを職業にしてきた人たちがいます。それが「お笑い芸人」です。
古今東西、お笑い芸人は、権力を批判したり、人権を侵害することが許されて来ました。
タブーをお笑いに変えてしまうのです。

ビートたけしなんて老人差別で人気を得た芸人ですし、今でも「ハゲ」とか「チビ」「デブ」「ブス」「貧乏」といった人権侵害発言をネタにしている芸人は大勢います。

自分が障害者でありながら、障害をネタにしている障害者芸人もいます。
たとえば↓この「脳性マヒブラザーズ」
https://youtu.be/usaYzskZ0aw
脳性マヒの本人がやっているので「笑ってもいいかな」と思いますが、このネタを健常者がやったらちょっと笑えませんね。単に障害者をバカにしているだけですね。

通常、社会ではやってはいけないこと、タブーというものがあるわけですが、タブーがこの世にある限り、タブー破りをする特殊な領域は必要ではないかと思います。

タブーとは「○○をしてはいけない」という戒律であり、そこには緊張が生まれます。緊張を緩和するのが「笑い」です。
何らかの形で緊張を緩和しないと、社会はギクシャクして来ます。ガスが溜まって行くのです。

「いや、だからといって、人を差別したり、侮辱するようなことが許されていいはずがない!」と思う人は大勢いると思います。
まさに、そういう目くじらを立てる人がこの世にいる限り「笑いの座」は必要なんだと思います。

在特会が「在日朝鮮人は特殊な利権を得ている、けしからん」と糾弾したことが、逆にヘイトスピーチだとして社会から糾弾されましたが(2013~4年頃)、「在日朝鮮人が特殊利権を得ている」ということが、誤解であり、偏見であるとしても、そういう言論を一切封殺してしまったら、そういう誤解や偏見を持っている人がいるということ自体が分からなくなってしまいます。
人々が腹の中にそういう思いを抱いたまま生活しているとしたら、あまり目立たないところで在日朝鮮人に対する差別が蔓延して行くことになります。
たとえヘイトスピーチだとしても、それを発言してくれたから、そういう偏見を持っている人がいるということが発覚したのであり、それによって偏見をなくすために社会を改善しようという動きも出るわけですが、発言自体を封殺したら、偏見が無くなるどころか、逆に不満が溜まってどんどん偏見が広がる可能性があります。ガスが溜まって行ってしまうのです。

しかし。
日常的にヘイトスピーチをやられたら困りますしね。

そこで、そういうことが許される(処罰が免れる)、特殊な領域が社会に必要になるわけです。

それが「笑いの座」であり「言論自由の日」であり「お笑い芸人」です。

社会の中で、ある特定の場所だけ、ある特定の日だけ、ある特定の職業の人だけ、タブー破りを許して、社会の緊張を緩和し、また人の心の奥底に潜んでいる本音を表に出させる、そういう機能が必要なんだと思います。
それは、日常的にやらせないためでもあります。

現代ではインターネットを使えば、いつでもどこでも一日24時間、何でも言いたい放題ですね。毎日が「笑いの座」です。
しかしそれもインターネットという特殊な空間の中だけの話でして、現実空間では言えないことは沢山あります。

もし、何を言っても許される日があったら、あなたは何を言いますか?
もちろん、匿名ですよ。
夫や妻に対して言いたい、という人が一番多いかも知れませんね。(^_^;

(この記事は2010年3月5日にブログ「霊界物語の新常識」に掲載した記事を加筆訂正したものです)

霊界物語にアトランティス大陸は出てくる?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年12月24日

失われた古代大陸と言えばムー大陸やアトランティス大陸が有名です。

太平洋の古代大陸は霊界物語にも「黄泉島」(よもつじま)として出て来ます。それを書いたのはアメリカでチャーチワードがムー大陸を発表する9年も前の1922年(大正11年)のことです。

古代大西洋あるいは地中海にあったと言われるアトランティス大陸は、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前4世紀の人)の著書に出て来る古い伝説ですが、1882年(明治15年)にアメリカ人が出版した本によって有名になったようです。

このアトランティスは霊界物語に出てくるのでしょうか?
私の知る限りでは、大西洋の古代大陸らしきものは、
霊界物語の次のところに出て来ます。

第30巻第1章「主従二人」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm3001#a128

大西洋の中央(まんなか)に
散在したる大島や
小島の間をくぐりつつ
波のまにまにテルの国(南米チリのこと)
ハラの港に上陸し・・・

この散在した大島や小島がアトランティス大陸のことなのかどうかは、何とも言えません。
現在の大西洋の真ん中には該当するような島々はありませんが・・・。しかしこの場面はフサの国(イラン)から末子姫と捨子姫がバラモン軍によって舟に乗せられ海に流され、そしてテルの国に漂流する場面なので、アフリカの南を回って来ているはずです。だからひょっとしたら、サンドイッチ諸島やフォークランド諸島を指しているのかも知れません。

霊界物語のどこか他の場面にアトランティスっぽい島が出てくるかも知れませんので、興味のある方は探してみて下さい。

重力の御恩、国祖の神力

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年12月22日

2013年に公開された『ゼロ・グラビティ』というアメリカ映画をご存知でしょうか?
宇宙空間でのパニック映画です。

乗っていた宇宙船に宇宙ゴミが衝突して壊れてしまい、地球に帰れなくなってしまった主人公の女性科学者が、宇宙空間を一人で移動して中国の宇宙ステーションに辿り着き、そこにあった宇宙船に乗り込んで無事地球に帰還するという物語です。

3D技術によって、宇宙の無重力空間での動きがリアルに再現されており、また宇宙から見た地球の美しさもリアルティがあり、エンターテインメントとしてとても素晴らしい映画でした。

パニック映画ですので、主人公が一人で、空気の無い、無重力の空間で、どのようにして宇宙船に乗り込み、帰還するか、それを楽しむ映画だと思うのですが、この映画のテーマは、地球に無事帰還した後の、ラストシーンに描かれていると感じました。

小さな着陸船のパラシュートが開いて、湖に落ち、主人公はそこから脱出して、泳いで陸地まで辿り着きます。
そして、両手を地に着いて起き上がろうとしたときに──起き上がれずにコケてしまうのです。
長い間、無重力空間にいたので、重力のある世界に適応できず、両手に力が入らなかったのでしょう。
主人公はふと笑みをこぼすと、大地に口づけをし、今度は両手に力を入れて起き上がり、ゆっくりと歩き去って行きました──。

このラストシーンを見たときに『この映画は重力の恩恵をテーマにした映画だったのか』と気がつきました。

調べてみたら、邦題は「無重力」を意味する『ゼロ・グラビティ』ですが、英語の原題は単に『グラビティ』(重力)でした。
本来は「重力」をテーマにした映画だったんですが、いろいろな商業上の問題で日本語の題名はゼロ・グラビティ(無重力)になってしまったのだと思われます。

たしかに映画自体は「無重力」空間におけるパニック映画です。
無重力空間では、体をどこかに固定させなければ、ドアを開けることすらできません。そして一度動き出すと、抵抗が何もないため、永遠に宇宙の彼方へと飛んで行ってしまうのです。

最初から最後まで、この無重力空間の恐さを見せつけられたので、それで最後の最後で「重力」があることの有り難さが実感として湧くのです。

重力の恩恵に気づかされた映画でした。
そして出口王仁三郎が水と空気の恩恵について霊界物語に書いていたことを思い出しました。

霊界物語第1巻第4章「現実的苦行」で、高熊山修業中に水の有り難さを感じたことが書かれてあります。
一週間の間、飲まず食わずで、水一滴飲むことすら許されていなかったのです。そこへふと、松葉から露(つゆ)が落ちて来て、王仁三郎の唇に当たりました。

ただ一滴の松葉の露のその味は、甘露とも何ともたとえられぬ美味しさであった。
これを考えてみても、結構な水を火にかけ湯に沸かして、温いの熱いのと、小言を言っているくらい勿体ないことはない。

草木の葉一枚でも、神様のお許しが無ければ、戴くことはできず、衣服は何ほど持っておっても、神様のお許しなき以上は着ることもできず、あたかも餓鬼道の修業であった。

そのおかげによって水の恩を知り、衣食住の大恩を覚り、贅沢なぞは夢にも思わず、どんな苦難に逢うも驚かず、悲しまず、いかなる反対や、熱罵嘲笑も、ただ勿体ない、有難い有難いで、平気で、社会に泰然自若、感謝のみの生活を楽しむことができるようになったのも、全く修行のご利益である。

それについて今一つ衣食住よりも、人間にとって尊く、有り難いものは空気である。
飲食物は十日や二十日くらい廃したところで、死ぬような事はめったにないが、空気はただの二・三分間でも呼吸せなかったならば、ただちに死んでしまうより途(みち)はない。
自分がこの修行中にも空気を呼吸することだけは許されたのは、神様の無限の仁慈であると思った。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=rm0104

水の御恩なら、感じることが時々あるかも知れませんね。スポーツをしたり肉体労働をした後で「あ~喉渇いた~」というときに飲む水は最高に美味しいですね。

しかし空気の御恩は・・・海で溺れるとか、そういう時でないと、なかなか感じることはないかも知れません。

それにもまして重力の御恩というのは、全く感じることがないと思います。人類が無重力空間に出るようになって、そこで初めて分かったことです。

重力があることの有り難さ。
重力があるから、私たちは生きていけるのです。
重力がなかったら、私たちは宇宙空間に散り散りバラバラです。
重力があるから、立つことも、歩くことも、物を持つことも、ご飯を食べることもできるのです。
重力によって、この地球に繋ぎ止められているのです。

この地球とは、つまり国祖・国常立尊です。
国祖の大神様は私たちを重力で繋ぎ止めてくれているのですね。

そして重力というのは、私たちの足の下に向かっています。
いったいどこから重力は出ているのでしょう?
足の下をずっとずっと進んで行くと、地球の内部のマントルを突き抜けて・・・最終的には、地球の中心に到着します。
私たちは地球の中心から、国祖の神力によって繋がれているのです。
そしてそれは、地上に住むすべての人がそうなのです。すべての人が、地球の中心部で繋がっているのです。
人だけでなく、すべての生き物、石ころから木の葉に至るまで、すべてのものが、重力によって地球の中心部で繋がっているのです。

すべてのものは一つに繋がった生命体なんだ・・・と想うと、神の力の偉大さに魂を打たれます。