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出口王仁三郎はいつから「出口王仁三郎」になったのか?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月21日

出口王仁三郎の幼名は上田喜三郎です。
明治31年(1898年)26才のとき高熊山修業をしたときもまだ上田喜三郎でした。
彼は一体いつから出口王仁三郎になったのでしょうか?

喜三郎は明治33年(1900年)正月元旦に、に出口直の末娘の澄子さんと神前で結婚式を挙げました。喜三郎28才、澄子16才です。しかし結婚したとは言っても、どうやら役所に届けは出していなかったみたいですよ。事実上、出口家に婿養子に入り、通名として出口姓を名乗っていたようですが、法的には上田喜三郎のままです。

喜三郎は上田家の長男で、家督を継ぐ立場にあったので、相続放棄の手続きが簡単ではなかったようです。明治時代の家制度は現代人にはなかなか分かりにくいですが、新しく戸主になった人(原則長男)が前戸主の財産すべてを相続します。その家督継承権を弟に譲るための手続きが、何やら面倒だったようです。

明治43年(1910年)12月29日に出口家の養子になる手続きを終えて正式に「出口王仁三郎」となりました。
澄子さんとの婚姻届を出したのは、翌年明治44年1月5日です。つまりこのときまでは「事実婚」で、籍を入れていなかった、ということです。澄子さんは「出口澄子」でも、王仁三郎は「上田王仁三郎」だったのです。(実際に当時の史料に「上田王仁三郎」と書いてあるものがあります)

おそらくこの手の事実婚は昔は(昔から?)多かったのではないかと思いますよ。現代では役所に届けを出すことが結婚だと思われているようですが、本来は神仏の前で結婚の儀式をするのが「結婚」であって、「二人は結婚しましたよ~」という事後報告を役所に出すのが婚姻届です。だから、結婚はしたけど諸般の事情で届けを出していないケース(現代でいう事実婚)はざらにあるのではないでしょうか?
そもそも法律上「夫婦同姓」が確定したのは、明治31年に民法が制定されてからのことです。それまで女は「○○の妻」とか「○○の娘」という形で扱われており、明治9年には「夫婦別姓」の太政官指令が出されていたようです。中国や韓国のように、結婚しても親の名字を名乗ったまま改姓しない、ということです。それが明治31年以降、欧米のように夫婦同姓になったのです。
そんなわけで、王仁三郎・澄子夫妻は結婚式を挙げてから11年間も法的には別姓だったというのは、当時としては特に珍しいことではなかったのではないかと思います。
ちなみに娘もすでに3人生まれていましたが、このときまでみな「上田」姓でした。

これで「上田」から「出口」になった経緯は分かりました。
次に「喜三郎」が「王仁三郎」になった経緯です。

上田喜三郎は明治31年3月1日から一週間、高熊山で修業した後、宗教活動を開始し、幽斎(鎮魂帰神)の研究を始めます。
何月なのか日ははっきりしませんが、ある日神示があって、ひそかかに出修(修業)に行けと神様に命じられました。
喜三郎は母親に心配させないように書き置きを残して家を出たのですが、この時の書き置きにふと「鬼三郎」と署名したのです。この書き置きは7~8割まで神の助けで書いたというので、「鬼三郎」と書いたのも神助によるものでしょう。
「鬼」は「キ」とも読むので喜三郎の「喜」と音が通じるから、やはり「きさぶろう」と読むのだろうと思っていたところ、その後出口直と出会い綾部の大本へ行ってから、鬼三郎は「おにさぶろう」と読むのであって、鬼門の金神(艮の金神)の仕組であったということが判明した…と王仁三郎は『本教創世記』の中で述べています。

明治36年(1903年)5月24日(旧4月28日)の「岩戸開き」のご神事(弥仙山参拝)の前日(旧4月27日)に出た、出口直の筆先に「こんど岩戸を開くには会長は坤の金神に守護が変わりて、善一すじの道へ立ち帰りて、出口王仁三郎と名をいたすから」と出て、このときから「おにさぶろう」と呼ばれるようになったようです。
筆先の原文は平仮名なので「おに」に「王仁」の字をあてたのは王仁三郎本人ではないのかと思いますが定かではありません。
法的に「喜三郎」を「王仁三郎」と改名したのは、明治37年(1904年)9月20日のことです。

さて、以上のことをまとめると次のようになります。

明治4年(1871年)7月12日、「上田喜三郎」が生まれる。
明治31年(1898年)春~夏ごろ? 「鬼三郎」と署名
明治33年(1900年)元日、出口澄子と結婚
明治36年(1903年)5月23日(旧4月27日)、「おにさぶろう」と筆先
明治37年(1904年)9月20日(旧8月11日)、役所に「上田王仁三郎」と改名の届
明治43年(1910年)12月29日(旧11月28日)、出口家の養子となり「出口王仁三郎」と改名
明治44年(1911年)1月5日(旧12月5日)、王仁三郎と澄子は婚姻届を出す

上田喜三郎はいつから出口王仁三郎になったのかと言っても、このようになかなか複雑で一言では答えられないのですよ。
とりあえず「法的には明治43年12月から」というのを正解にしましょうか。
これは王仁三郎検定一級クラスの難しい問題でした。(^0^;)

【参考資料】
『本教創世記』
『大本七十年史 上』p157,p318
『大本年表』p107,p115

霊界物語の残りの巻はタイプライターで打つつもりだった?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月18日

王仁三郎は霊界物語を120巻まで書く予定でしたが(第1巻附記、第37巻序、第73巻序文を参照)、結局81巻で終わってしまいました。
昭和9~10年に天祥地瑞を書き終えた後、第二次大本事件が起きてしまったので、仕方ないかも知れません。
しかし王仁三郎は出獄したら、残りの39巻を書くつもりで、側近にタイプに習えと指示していました。
今までは自分は口述して弟子に筆録させるという形で執筆してきましたが、今度はハイテクを導入してタイプライターで打たせようとしたみたいです。

王仁三郎の晩年に7年間、側近をしていた三浦玖仁子さんの著書『花いろいろ』という本に、次のように書いてあります。

ある日のことです。聖師さまからお便りを通し、「わしはタイプが必要だからタイプを習っておいてくれ」とのお指図を頂戴したのです。私は、さっそく藪内家から市内のYMCAへタイプを習いに通いました。あとで伺ったことですが、聖師さまは-刑務所から出てから、あと四十巻ほど物語を出す-ご予定だったのです。その内容は-刑務所の中のことを面白く風刺して書く-はずであったのです。そのためにタイプを勉強しておくようにお命じになったのですが、結局、そのご計画も、ご無理がたたり実現するにいたりませんでした。
(三浦玖仁子・著『花いろいろ ──出口王仁三郎聖師側近七年の記録』1988年、P41~42)

和文タイプライターというのは、調べてみると、すでに大正4年(1915年)に製品化されていたようです。パソコンのキーボードは100個くらいしかキーがないですが、和文タイプライターは仮名漢字変換なんてないですから、漢字を直接打ち込むので、キーが2000個以上あったようです。タイプを覚えるのはかなりたいへんだったことでしょう。

○和文タイプライターについて
 ウィキペディア
 これなあに?

ところで王仁三郎が現代に生きていたら、どうやって霊界物語を書いたでしょうね? パソコン使って自分で書いた?
私は必ずしも文章にはしなかったのではないかと思いますよ。何故なら霊界物語は王仁三郎が霊眼・霊耳で見聞きした出来事だからです。当時はもっとも簡単な表現方法が活字だったというだけで、IT技術の進んだ現代にもし王仁三郎が生きていたら・・・マンガやアニメ、あるいは3D映像として記録したのではないかと思います。

講演ビデオ「出口王仁三郎聖師と霊界物語~奇跡としての霊界物語編」

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月17日

山田一郎氏(仮名)の講演ビデオです。パワーポイントを使って、王仁三郎と霊界物語のすごさがわかりやすく紹介されています。約80分の動画を2分割しています。

「出口王仁三郎聖師と霊界物語~奇跡としての霊界物語編」

https://www.youtube.com/playlist?list=PLi0tYfzTTjiQBnuUXxc9zYszfvUTckhzv

霊界物語の予言や、第55巻序文などに秘められた暗号文、柳原白蓮を匿っていたこと、霊界物語の巻数と口述期間、口述ペースの速さ、口述の苦労など、写真や画像を使っているので、とてもわかりやすいです。

霊界物語の口述地は22箇所あるというのは、私も気付きませんでした。(「王仁」という文字を分解すると「二十二人」になりますが、22という数字は王仁三郎に由縁のある数字の一つです)

メルマガ『霊界物語スーパーメールマガジン』をご存知ですか?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2015年11月17日

出口王仁三郎と霊界物語をやさしく解説する『霊界物語スーパーメールマガジン』は平成24年(2012年)8月27日に創刊しました。最初は週3回、現在は週2回のペースで、無料で配信しています。

すでに通算400回くらい配信しています。バックナンバーは編集し直して、アマゾンのキンドルで読む電子書籍にしています。

登録とバックナンバーの案内は、こちらのページからどうぞ。↓
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