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伝記地図(1)亀岡~綾部の概観

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月28日

出口王仁三郎の伝記によく出て来る地名がどの辺りにあるのか、地図にプロットしてみました。

霊界物語第37~38巻は王仁三郎の前半生の自叙伝になっており、現在メルマガの方に「王仁三郎の人生から教訓を得よう」ということでその第37~38巻を元に連載しているのですが、その自叙伝をよく理解するために、地図を作ってみた次第です。
前回の「西は半国 東は愛宕 南妙見 北帝釈……の帝釈とは?」も同様の意図です。

さて、まずは亀岡~綾部の間の概観です。(クリックすると大きな画像が開きます)

亀岡~綾部の概観

王仁三郎の郷里「穴太(あなお)」の北の方にある「八木(やぎ)」は、出口ナオの三女・久子が住んでいた場所で、王仁三郎と久子が邂逅した「虎天堰(とらてんいね)」と呼ぶ大きな堰(いせき)があります。(写真

 ○霊界物語 第37巻第21章「参綾」(虎天関と書いてあります)
 ○大地の母 第5巻 開祖初会(寅天堰と書いてあります)

八木の北西にある「園部(そのべ)」は、王仁三郎のいとこで獣医の井上直吉が住んでおり、王仁三郎が22~3歳の頃(明治26~7年)井上の書生となって獣医学を学んでいました。仕事をしていた牧場のすぐ隣りに南陽寺というお寺があり、そこに逗留していた国学者・岡田惟平から和歌の道や歌祭りを学んだ重要な場所です。

 ○本教創世記 第一章
 ○飯塚弘明.com 「王仁三郎の和歌の師匠・岡田惟平の略歴

ずっっと飛んで、綾部の西の福知山は、出口ナオが生まれた所です。16歳(数え年だと17歳)で綾部の叔母の養女となり移住しました。

その上(北)の元伊勢内宮皇大神社は、明治34年(1901年)に「元伊勢お水の御用」と呼ばれる御神業が行われた場所です。

 ○霊界物語 第38巻第20章「元伊勢」

丹波地方には元伊勢以外に元出雲もあります。亀岡市内の「出雲大神宮」です。
王仁三郎において出雲は重要な地ですが、しかし出雲大神宮(当時は出雲神社と称していた)の話は全く出て来ません。参拝したという記録はあるのですが。
丹波国一宮で有名な神社なはずですけど、王仁三郎の宗教思想上はそれほど重要ではないようです。

桂川と由良川

亀岡市内も綾部市内も、かなり幅の広い川が流れています。
亀岡の方は桂川(かつらがわ)、綾部の方は由良川(ゆらがわ)です。
電車(山陰線)に乗っていると、亀岡近辺でも綾部近辺でも川が見えるので、同じ川なのかなと思ってしまうのですが、全く別の川です。

上の地図ではよく見えませんが、桂川は亀岡市内から京都市内を通り、南下して、鴨川や宇治川や木津川と合流して淀川と名を変え、大阪湾(瀬戸内海)に注ぎます。

由良川は、福知山市内で向きを変え、国道175号線沿いに北上して、舞鶴湾(日本海)に注ぎます。

川は地域によって名前を変えますが、桂川は亀岡市内では「大井川(おおいがわ)」、愛宕山の麓では「保津川(ほづがわ)」、京都の嵐山を通り、「桂川」となります。
しかし名前が変わると不便な面もあるので、現在は行政上は「桂川」に統一しているようです。だから地図上も桂川です。
現在地元では何と呼ばれているのかは分かりませんが、王仁三郎の文献では亀岡市内は「大井川」とか「大堰川」と書かれています。

一方、由良川は、上流部分は(和知の辺りから)「和知川(わちがわ)」と呼びます。
これも現在行政上は「由良川」に統一しているようです。
王仁三郎文献では「由良川」と「和知川」は併用されています。どう使い分けているのかは不明です。
たとえば霊界物語第2巻序では、川沿いに建つ松雲閣(しょううんかく)での口述風景として

二十四年間心に秘めたる霊界の消息も、いよいよ開く時津風(略)夢かうつつか幻か、神のしらせか、白瀬川、下は音無瀬由良の川和知川、上林川の清流静かに流れ、その中央の小雲川、並木の老松川の辺に影を浸して立ならぶ、流れも清く、風清く、本宮山の麓なる、並松に、新に建ちし松雲閣書斎の間にて五人連れ、口から語る、筆を執る、五人が活気凛々として、神示のままを口述発表することとなつたのであります。
第2巻序

というように、由良川と和知川が別々の川のように書かれています。
和知川が由良川に流れ込んでいる…というような認識でしょうか?

さて、桂川と由良川の源流なんですが、調べてみて驚きました。
同じ所から発しているのです。
桂川の(主な)源流は佐々里峠、由良川の(主な)源流は杉尾峠なんですが、上の地図の、右の方に赤い色でプロットした場所です。

 ○桂川(国土交通省)、桂川(ウィキペディア)
 ○由良川(国土交通省)由良川(ウィキペディア)

桂川は佐々里峠から「宇津(うづ)」を通り、「園部」を通って、亀岡へ流れて行きます。
由良川は杉尾峠から「和知」を通って、綾部へ流れて行きます。

この二つの峠の間は8キロほどしか離れていません。
雨雲さんから見たら同じ場所だと言ってもいいでしょう。
この山地に降り注いだ雨は、佐々里峠という分水嶺の、南に落ちた雨水は桂川となって亀岡を通り、大阪湾(瀬戸内海、太平洋)へと流れて行き、北に落ちた雨水は由良川となって綾部を通り舞鶴湾(日本海)へと流れて行くのです。
また杉尾峠という分水嶺の南に落ちた雨水は由良川となり、北に落ちた雨水は南川(みなみがわ)という名の川となって小浜湾(日本海)へ流れて行きます。
地図にプロットして初めて気が付きました。同じ所に降った雨が、桂川と由良川になっていたのです。

西は半国 東は愛宕 南妙見 北帝釈……の帝釈とは?

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月25日

霊界物語第37~38巻は王仁三郎の自叙伝ですが、そこに次のような歌が出て来ます。

西は半国(はんごく)東は愛宕(あたご)
南 妙見(みょうけん)北 帝釈(たいしゃく)の
山の屏風(びょうぶ)を引きまわし
中の穴太(あなお)で牛を飼う
第37巻第2章「葱節」〕

高熊山修業で自分の使命に覚醒する以前の王仁三郎(当時の名は上田喜三郎)は、郷里の穴太(現在の亀岡市曽我部町穴太)で牛を飼い、搾乳兼牛乳販売の事業を営んでいました。
その穴太は、歌にあるように、四方を山の屏風に囲まれた村落です。

西には半国山があり、東には愛宕山があり、南には妙見山が、北には帝釈山があるというのです。

穴太に限らず亀岡は盆地なので、四方を山に囲まれています。
しかしあまりにも山だらけなので、どれがどの山なのかさっぱり分かりません。

地図で調べると、山の名前が書いてあるので、どの山なの分かるのですが、ちょっと疑問に感じることがあります

一つ目は、帝釈山はどの山?ということ。
半国山、愛宕山、妙見山は分かるのですが、帝釈山は地図に書いてないどころか、ネットで調べてもこの近辺には該当する山がありません。

二つ目は、山の位置がどうもおかしいこと。
穴太から見て、半国山はだいたい西にありますが、愛宕山は東北(艮)だし、妙見山は南西(坤)に位置しています。

四方に山があるのですから、東や南に位置する山は他にあると思うのですが・・・

ということで、Googleの地図を使って位置関係を調べてみることにしました。


●南 妙見

まずは南からです。
次の地図に、黄色い丸が三つありますが、一番左側が穴太の集落です。
つまり穴太から南方面を上空から見た地図ということになります。(クリックすると大きな画像が開きます)

穴太から南をのぞむ

穴太の少し右にある黄色い丸は、高熊山です。地図上は丁塚山(ちょうづかやま)と呼びます。
標高は357m。
穴太も含め亀岡盆地の標高はだいたい100mくらいなので、比高250mくらいの山です。
この山の中腹にある岩窟で、王仁三郎は霊的修業をしたわけです。

右上の方にある黄色い丸が、妙見山です。標高660m。

大ざっぱに言って、穴太の周囲は標高3~400m級の山に囲まれ、さらにその周りを5~600m級の山に囲まれています。

これらの山々の向こう側は大阪です。この地図で見ると近いように思えますが、実際には穴太から直線で20kmも行かないと、山越えして大阪に行けません。けっこう遠いです。

穴太のすぐ南側にも、名前がよく分からない3~400m級の山がいくつもありますが、なぜ妙見山なのでしょうか?
現地で見てみないと何とも言えませんが、地図で見るかぎりだと、南には湯谷ケ岳という、妙見山と同じ600mクラスの山があります。
なぜ妙見山なのでしょう? 穴太で住んでいる感覚だと「妙見」の方がランドマーク的なのでしょうか?

それはちょっと置いといて、次に北を見てみます。
問題の帝釈山です。

●北 帝釈

地図やネットをいくら探しても帝釈という山はこの近辺に見当たりません。
いろいろ調べたら、ほぼ真北にある諸木山(もろきやま)が、昔は帝釈山と呼ばれていたようです。
この山の麓(西の方)に、1200年以上前に建立された帝釈天堂があり、「京都帝釈天」と呼ばれ有名みたいです。
そのため帝釈山と呼ばれていたのでしょう。
曹洞宗の福寿寺(ふくじゅじ)というお寺が管理しています。(ウィキペディア「福寿寺」)

次の地図は江戸時代の文政年間(1818~31年)に作成された「丹波国図」です。(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

丹波国図

「帝釈山」と書いてます。
現代の地図の地名と照合してみると、諸木山が帝釈山だと分かります。(国土地理院地図
右上の「千代田山」というのは、現代の「千歳山」ではないかと思います。

穴太から北をのぞむ

●西 半国山

この山はだいたい西にありますし、標高774mで高いので、手前の山の向こうに高く見えるのでしょうか。

穴太から西をのぞむ

●東 愛宕山

この山は東北(艮)にありますが、東の方(老ノ坂方面)にはそれほど高い山はないので、東北でも仕方がないと思います。
標高900m超で、さすがに高い山なので、ランドマークとしてよく目立ちます。

穴太から東をのぞむ


これは真上から見た地図です。

穴太の真上から

西に半国(はんごく)聳(そび)え立ち
東に愛宕の峰高く
南遥(はるか)に妙見の
山(やま)雲表に屹立し
帝釈山(たいしゃくざん)は北方に
コバルト色を染め出(いだ)し
若芽に萌ゆる山屏風
中の穴太に牛飼いし…
第17巻総説歌

現地からだと、この歌のように見えるのですかね?
私も亀岡には何度も行ってますが、じっくりと山を眺めたことはないので・・・そもそも山ばっかりで、どれがどの山なのかよく分かりません。(^_^;

実際にこれらの山がランドマークなのかも知れませんが、この四つの山をよく調べると、いずれも宗教の山だということに気づきます。

東の愛宕山には、京都市側に愛宕神社があります。全国に約900社ある愛宕神社の総本社です。
また亀岡市側には、その愛宕神社の勧請元だという「元愛宕」神社があります。(ウィキペディア「愛宕神社」)

南の妙見山は、日蓮宗の重要な寺院である「能勢妙見堂」があります。(ウィキペディア「能勢妙見山」)
公式サイトを見ると「北極星信仰の世界的聖地」と銘打っています。(能勢妙見山の公式サイト

西の半国山は「丹波富士」とも呼ばれる秀麗な山容です。
この山には、金輪寺という、鎌倉時代に創建された天台宗の修験道の寺院があります。(参考

そして北の帝釈山は「京都帝釈天」です。(曹洞宗の福寿寺)

少し高い山にはどこにでもたいてい神社やお寺がありますが、この四つの寺社は小さな寺社ではなく、いずれもそれなりに有名な寺社のようです。

四つの山は、見た目のランドマークとしてだけではなく、宗教的なランドマークでもあるのかも知れません。

言向和(46) 周りを「共鳴」させる のび太くん

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月18日

「『言向け和す』というのは物理で言う『共鳴』のことだ」と、ある人が教えてくれました。

共鳴とは、共振とも言いますが、物体が振動を始めると、他の物体も振動を始めることです。
よく、二つの音叉(おんさ)を使って実験されます。片方の音叉を叩いて音を鳴らすと、もう片方の音叉も、叩いていないのに、共鳴して音を立て鳴り出すのです。
(ユーチューブに音叉を使った共鳴の実験がありました)
https://youtu.be/cVhWB3IniBo

これは物理現象ですが、心理現象でも「共鳴」という言葉を使います。「共感」という方が一般的ですね。他人の考えや行動などに同感・賛同することです。

「相手の気持ちに共鳴する」というように、たいていは、「共鳴する側」の立場で共鳴という言葉が使われますが、「言向け和す」を考える場合には、「共鳴させる側」の立場が重要であると思います。つまり「自分の気持ちに共鳴してもらう」ということです。

世の中を良くしようと思って、どんなに正しいことを主張しても、その主張に人々が共鳴してくれなくては、世の中を良くすることはできません。「世の中」とは人間の集団(社会)のことですから、他の人を共鳴させることができなくては、世の中を変えることは出来ません。

それで、「他人を共鳴させる」技術を身に付けることが、言向け和すために必要なことになって来ます。

霊界物語では、三五教は「感化力」が強い、というように、「感化力」という言葉が使われますが、この感化力とは「共鳴させる力」と言っていいと思います。

   ○   ○   ○

ネットで調べていたら、ちょっとおもしろい記事を見つけました。

「ドラえもん」の主人公のび太くんが、とある映画の中で、しずちゃんやジャイアン、スネ夫ら周りの人たちを「共鳴」させたことについて論じた記事です。

『「のび太」という生きかた:自ら動き、周りに共感してもらう』
http://www.itmedia.co.jp/bizid/articles/1502/03/news001.html

詳細は記事を直接読んでいただきたいのですが、この記事の著者は、紹介している映画に出てくる恐竜のエピソードを通して、「夢を叶えるためには、「周りの人を感動させ、巻き込むこと」が重要である」と訴えています。のび太はそれができる人物だというのです。

なるほど。
のび太と言えば、全然パッとしない、いじめられっ子というイメージですが、実は「夢を語る少年」だったのです。

そう言えばそうかも知れませんね。
のび太の「悩み事」をドラえもんが未来のツールで解決して行くのが『ドラえもん』ですが、その悩み事というのは、言い方を変えれば「夢」です。たいていは身の回りのちっぽけな話題なので「夢」と言うには少々大げさですが、たまには前述の記事に出てくるようにスケールの大きな話題も出て来ます。そうすると、のび太が「夢を語る」少年だったことが見えてきます。

この記事では、その夢を叶えるためには
「人が共感できる夢を持ち、その夢に対するあなたの熱意が周りに伝われば、自然と協力者が現れ夢は自ずと叶いやすくなる」
という答えで結んでいます。
ある意味ではありきたりな解答ですが、この「共感できる夢」というのは重要です。「共感できない夢」もあるからです。

共感する人が多くても、共感しない人もまた多かったら、社会を変えることはできません。それどころか社会は分裂し混乱するだけです。

社会を変えるには、より多くの人を共鳴させて行かなくてはいけません。
一部の人だけではなく、多数の人が共鳴するような「夢」を作り上げて行く必要があります。
反対派をも共鳴させてしまうような、強い感化力を持った夢です。

(続く)


この文章は過去に次のところへ掲載した文章を加筆訂正したものです。
「言向け和すメールマガジン」2016年6月1日号

霊界物語ネットで文字化けしたサーバーエラーが出た時は

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月17日

霊界物語ネットにアクセスした時に、文字化けしたエラーが出て表示されなくなったら、ブラウザの履歴を総て削除して、再びアクセスしてみて下さい。

【エラーの例】

エラーの例

これはサーバー側のエラーで、ブラウザ側のエラーではないんですが、Google Chromeでエラーが出たときに、試しに履歴を削除してみたら、再び表示されるようになりました。

もしものときはやってみて下さい。

「瑞能神歌」について

Published / by 飯塚弘明
投稿:2017年09月15日

王仁文庫 第三篇「瑞能神歌(みづのしんか)」を霊界物語ネットにアップしました。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003

瑞能神歌には
大本神歌
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c03
いろは歌 その一
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04
いろは歌 その二
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c05
の三つの神歌が収められていますが、実は今までも他の資料にほぼ同じものが掲載されていました。

大本神歌 → 大本史料集成 Ⅰ
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22031

いろは歌 その一 → 大本史料集成 Ⅰ
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22021
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c22022

いろは歌 その二 → 大本史料集成 Ⅰ、出口王仁三郎著作集 第一巻
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195501c2106
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B195301c03

これを元に校正し、ルビや脚注を付けて「瑞能神歌」としてアップしたものです。

瑞能神歌とは主に予言が記された歌なんですが、内容の解説はまた別の機会にすることとして、外形的な情報をここに記しておきます。


瑞能神歌の「解題」
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c02
にも書いてありますが、三つの神歌の初出はそれぞれ次の通りです。

大本神歌
大正6年(1917年)12月1日・筆
『神霊界』大正7年2月1日号で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180201c03(霊界物語ネットには未掲載)

いろは歌 その一
大正6年(1917年)11月3日・筆
『神霊界』大正6年12月1日号(「い」から「ふ」の段まで)、及び大正7年1月1日号(「こ」の段以降)で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919171201c03(霊界物語ネットには未掲載)
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919180101c05(霊界物語ネットには未掲載)

いろは歌 その二
明治36年(1903年)9月10日・筆
『神霊界』大正6年11月1日号で発表
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=M192919171101c02(霊界物語ネットには未掲載)

これが後に一冊の本にまとめられ、王仁文庫の第三篇「瑞能神歌」として大正10年(1921年)1月に発刊されたのです。

当時の本をスキャンしたPDF復刻版が、霊界物語ネットの「書籍ダウンロード」でダウンロードすることが出来ます。(onibon_pdf_01.zip)
http://reikaimonogatari.net/dl.php

   ○   ○   ○

さて、最初に発表された神霊界誌上の神歌と、瑞能神歌収録の神歌とを較べてみると、細かい文字の違いはあるものの、ほとんど一緒です。

しかし、「いろは歌 その一」と「その二」の一部分に大きな相違があります。
脚注として本文中に入れておきましたが、その大きな相違点だけをここにも書いておきます。
脚注の設定はこちらをお読み下さい。総ての脚注を開いたり、非表示にしたり出来ます)

まず「いろは歌 その一」の「な」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a357#a353
「御稜威もたかき大和路の」が、初出の神霊界では「罪も穢れも内藤の、家に集える信者を、大本王仁が引連れて、御稜威もたかき神の森、大阪本の文雄大人、其他あまた伴なひて、大和の国に名も高き」になっています。つまり王仁文庫に収録されるにあたり、ばっさりと短く切り落とされたのです。理由は不明。

次は「も」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a926#a918
「道の審神者は経と緯」が、初出の神霊界では「未だ日も浅野王仁の大人」になっています。浅野和三郎の名を出したくなくて修正したのか?

次は「せ」の段。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a940-a943#a938

神 「活動く時機を松の世の、東の国に冬小森、国の鎮めと木花の」
王 「活動く時機を松の世の、国の鎮めと木花の」

神 「咲耶の姫の弥固き、千代の常磐の岩下に」
王 「咲耶の姫の活動は、千代に八千代に動きなき」

それに続いて「す」の段。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c04&mka=a9764a9765a9806-a9809#a976

神 「教御祖と諸共に、神の御教を王仁が」
王 「教御祖の神教に、服ろひ尽す真人が」

神 「咲哉木の花直日嬢、御代の一の大二に、誉も竜の宮の棟、十曜の星のキラキラと」
王 「咲哉木の花春の空、時代の栄へも弥広く、誉も竜の宮の棟、十曜の紋のキラキラと」

この「せ」と「す」の段は、他にも細かい文字の相違が多いんですが、神霊界では姓名折込歌になっているため、姓名に合わせた用字・文言になっています。しかし王仁文庫では姓名折込歌ではなくふつうの神歌になっているため、字句を改めたのではないかと思われます。

最後は「いろは歌 その二」の「く」の段です。
http://reikaimonogatari.net/index.php?obc=B115003c05&mka=a248#a243
「然も大道の中心を」の前に、神霊界では「手掛足懸色々に、」という文が入っています。

大きな相違点は以上です。

   ○   ○   ○

余談です。
「瑞能神歌」は基本的には予言歌のようですが、回顧歌も一部含まれています。
「いろは歌 その一」の「な」の段以降は回顧歌のようです。

「む」の段ですが、ここは、大正6年(1917年)4月23日に明治天皇の遠い親戚だった鶴殿親子(大本名は大宮守子)が初めて参綾し、その翌24日に、王仁三郎・鶴殿親子ら一行11人で吉野山へ神業に出向いた時のことが記されています。
その時の模様は神霊界の大正6年6月1日号p37~40に「山吹の花」という題名で詳しく載っていますが、まだテキスト化していません。
この吉野の御神業もいろいろ謎めいています。
『新月の光』の「吉野山」という項に、

大石凝先生は吉野山に金がある。厚さ三寸、巾三里、長さ十三里のがあると言われていた。(略)
王仁は大正六年四月二十四日、大勢つれて吉野山に見に行った。金峯山や八幡山にはあるが、これは嘘やと言って帰った。確かにある。金のあるところには、黄金草が生えているから判る。シダのようなものである。(昭和十八年)
〔新月の光(八幡版)下巻 p105〕

とあるのは、この時のことです。